: 05 :

「覚えていないだけだ」
 かろうじてそう言うと、ふっと笑って、千寿は視線を外した。まるで別人のようだった。心臓が早鐘を打つのを感じた。
 覚えていないだけ。そうもう一度呟いた時、それに反応するように、右手が痛んだ。焼け付く痛み。思わず、左手で押さえる。絵筆が落ちた。しかし、無い右手には触れられない。感覚はあるのに、すり抜けてしまう。痛い。暫くすると、痛みも引く。覚えていない。思い出せるか?無理だ。何も無い。右手のように。もう、無い。けれど、何処かここではない場所にある。何故か感じる。正体不明。
「ああ、センセイ、もう夜明けです。すいません、変なことを聞きました。大丈夫ですか」
 いつもの調子に戻って、千寿が窓の外を指差す。雨は上がっている。いつの間にか。
「・・・今、思い出した」
「何をです?」
「あの日も、雨が降っていた。さっきまでのように」
「・・・そうですか。ああ、もう帰らないとな。もう少し、聞きたかったけど。じゃあ、失礼しますね」
 そう言って、千寿はドアを開けた。東に面したドアを開けると、夜明けの光が入り込み、こちらを向いた千寿の顔を陰にする。
「そういえば、センセイ。もうひとつ、聞いて良いですか?」
「どうした」
「僕の名前、呼んでみてくれますか」
「・・・・・・、しまった」
 私は、彼の名を、知らない。彼がここに来はじめたのは、今月、8月の半ば頃で、彼は私に名前を教えていない。
「チトセって、呼んでたでしょう。千の、寿で」
 確かに、そう、呼んでいた。
「センセイ・・・千寿は、センセイの奥さんの名前ですよ」
 含み笑いとともに、彼は言った。そうだった。千寿は・・・私の、妻の名だった。どうして彼のことを千寿と呼んだのだろうか。
「僕には、センセイの右手が何を掴んでいたのか、少し分かりましたよ。センセイも、分かってるはずです。多分、僕の予想だと、手の連作はこれで最後でしょうね。海は、最後の記憶の土地ですから」
 最後の言葉で、何処かの鍵が開く音がした。
 あの日の深い青。雨に白く泡立つ水面。上へ昇る空気の玉。暗い青にぽっかりと浮かんだ白い肌。海。千寿。雨。掴む、手。記憶の蓋が開く。記憶の画像が頭を駆け巡る。
「それじゃあ、また、絵が完成する頃に、来ますね。頑張って下さい」
 明るくそう言って、彼は、逆光の中に出て行った。私は上の空でそれを聞いていた。家の中に静けさが満ちる。
 私は絵筆を執る。半透明の膜の向こう、景色は全て描いた。
 描き足す所は、右手の中。絵筆を動かして、一気に描く。最後の仕上げの、手の中身。描き足す部分は、少し大きい。彼がまた来るのは、もう少し先になるだろう。その時はまた、私に質問を浴びせて、私を疲れさせるのだろう。
 大雑把だが、大体を描き上げた時、右手の痛みは無くなった。満足したのだろうか。私が思い出したことに。そうだと良いのだが。
 絵が完成に近づいて、しかしそれでも、右手の奇妙な感覚は残った。手の中に握るものを明らかにして、私の右手は今日も記憶の世界を泳ぐ。私はその記憶を描く。問題の海の絵は、あと少しで出来上がる。
 次に彼が来たら、今度は名前を聞こう。

:終:

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