: ライラックの象 :

 僕の花柄の象はライラックのかおり。どこに行くの、妹をおいて。
 ねえ、ここはどこかな、花柄の象。ここは少し、肌寒いね。
 ねえ、靴をどこにやったろうか。海において来てしまったみたいだ。
 ここは、うん、君の言うとおりだよ花柄の象。雲の上だね。
 かみさまに近いのに、どうしてこんなに肌寒いのかな。これじゃ、海のほうが。
 ねえ、本当は、温かい海に
 沈んでしまいたかったんだよ。
 こんな寒い所じゃなくて。

 雲が原は高高度、見下ろす世界は遥か下。どこまでも雲の平地。
 蒼く冴えた風が吹いて少年の短い金の髪を乱す。
 心地いい、と呟いて、少年は雲海に倒れ伏す。閉じた瞼の向こうにひんやりと雲の冷気を感じる。動いて火照った体が冷えていく。
 耳底には何の音も残っていない。「ここは深々と静か」少年は云った。
「けれど誰も居ない」
 ごつ、と不意に、後頭部に何か乾いて硬いものがあたって、少年は眼を開けた。うつ伏せに雲が原を抱きしめている少年には、自分の頭を小突くものの正体は見えない。少しだけ芽を吹いた不安の木の芽と、それより一回り大きい、子供ならではの抗えぬ好奇心、背中に移動した小突きに促されて、少年は気だるげに体を反転。同時に、短く小さな叫び声。それは無意識に少年の唇で紡がれた。
「花柄の」
 少年の、まだ世界が途方もなく広大に見えるこの年齢特別の瞳には今、高い空を背景に、奇妙なものが映っている。ずいと眼前に突き出された、細長い鼻。ぱたりぱたりと動く大きな耳。くりくりと愛嬌のある黒く小さな目が少年を見つめている。
「花柄の、象」
「そうです。わたしはいかにも、はながらのぞう」
「喋った」
「しゃべりますよ。しょうねん、あなたも」
 長い鼻をゆらゆらさせながら花柄の象は人間の言葉を話した。少年は物珍しそうに、像の花柄の鼻を細い指先で撫でる。
「本物?」
「ほんものですよ。すくなくとも、しょうねんとおなじくらいは」
「そう」
 さむくないのですか、と云って、花柄の象は少年の手の辺りに鼻を差し伸べた。少年はその力を借りて、腰を上げた。事実、裸足の少年の白い足の踵と爪先は、冷たい雲海の所為で赤くかじかんでいた。
「さあ、いきましょう、しょうねん」
「一体どこに?花柄の象。君は行く先を知っているの」
「あるいて、ついたところが」
 花柄の象は、鼻で器用に少年を抱き上げて、ひょいと軽く背中に乗せて、広大な雲が原を歩き始めた。ゆらゆらと揺れる象の背の上で、少年はまどろみを覚える。
「ねえ、花柄の象、聞いてもいい」
「なんでしょう、しょうねん、わたしがこたえられるはんいでなら」
「眠いんだ。ここに来てから僕は寝ていないような気分だ。僕はいつここに来たのだっけ」
「ああ、しょうねん。わたしにはわかりません。なんせ、ここは」
「ここは?」
「くもがはら、ですから。すべてのじかんが、いみをうしなうばしょ、ですから」
「そう。ねえ、眠ってもいい」
「どうぞ、しょうねん」
「花柄の象、きみはライラックのかおりがするね。僕の家のかおりだ。きれいに咲くんだ。妹が好きな花だ。さっきは冷たい雲が心地よかった。運動したのかな、覚えてない。ねえ花柄の象、ここに来る途中で妹を見なかった。すごく可愛いこなんだ。ねえ、僕は、どこにいたのだっけ」
「しょうねん、そろそろ、ことばがあやしいですよ。ねむってはどうです」
「きみに、いわれたく、ない・・・」
「おやすみなさい、しょうねん。またさめるときまで」
「ねえ、花柄の象」
「おどろいた。なんです」
「きみは、暖かいね。ここは寒いよ。かみさまの近く、なのに」
「かみさまのちかくだから、ですよ。さあ、おやすみなさい、しょうねん」
「おやすみ、花柄の象。また醒める時まで」
 眠る少年を背に乗せて、これでもう幾百度目、花柄の象は歩き始める。ゆっくり、ゆっくり。どこまでも平地の雲が原。足元は冷たく雪色。遥か頭上は宇宙の紺青。きらきらと星の影。どの色も冴え冴えと。
 少年と花柄の象、進むは雲が原。時の止まった雲が原は高高度。蒼い風が少年の金の髪を揺らす。

 本当は沈んでしまいたかった。温かく蒼い海に。きらきらひかる蒼い海に。赤い海なんか見たくなかった。妹は倒れた。大好きなライラックの花に抱かれて、その花を真赤に染めて。ねえ、どうしたの。呼びかけても返らない言葉。砂利の音に振り返る。そこには黒々と鉄の口。獅子の吼え声に似た最後の音が響く。気付けば雲が原。
 本当は沈んでしまいたかった。温かく蒼い海に。きらきらひかる蒼い海に。彼等が来るずっと前に。あのこと、妹と2人で。そうすればどこまでも一緒にいられたのに。
 ここは寒いよ、ライラックのかおりの花柄の象、

 僕の最後の夢のかたち。

 :終:

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