: 真夏の渡り廊下 :

 誰も居ない渡り廊下、窓の外に流れる雲、金魚。冷たい風が吹き抜ける。
 プールの底のイルカは人懐こくわらった。きらきらの水面がまぶしい。
 柱の影の黒い渡り廊下、コンクリートのさっぱりとした影。僕の影は融けて、べったりと床に張り付いている。
 きらきらの水面の下でイルカがあぶくを出して呼んでいる。おいで、おいで、また一緒に遊ぼうよ。けれども僕はそっちへ行けないんだ。雲間の金魚は立ち尽くす僕を一瞥して、すいすいと流れていった。
 遠くの遠くの子供の声、踏切の音。黄色と黒の遮断機を、シャチがロールオーバーで跳び越えた。おみごと。真夏の空気人間たちの拍手、大喝采。
 ぎらぎらと輝く太陽に、歩けない木々が身じろぎする。
 自らの影で冷えた階段が静かに静かに僕の名前を呼んだ。校庭の向こうのアスファルトで踊る陽炎を見つめていた僕は、その声をつまんで窓の外の金魚に食べさせる。なんだかあんまり美味しそうじゃない。
 背後の窓でピンクのクジラが僕を呼んだ(けれども僕は、名前を金魚に食べさせてしまったから、その声は音以外の何の意味も持たなかった)。ねえクジラ、早くしないとシャチに食べられてしまうよ、今に遮断機を跳び越えて。君も知ってるだろう、シャチの本当の名前をさ。僕がそう云うと、クジラは目だけで一緒に来ないかと言った。不器用なウインク。なかなかキュートだ。いいよ、一緒に行こう。プールの底のイルカには悪いけれど。ごめんね、と言ったらイルカは何も気にしていないように、けれども少し寂しそうに、笑った。
 イルカとはついこの間友達になったばかりで、きらきらの水面に飛び込んだ僕は、プールの底で彼と会った。彼はこんにちはの挨拶がとても上手だった。ごめんねイルカ。でも、気づいたら僕は渡り廊下に居たんだ、本当はもっと君と遊びたかったのだけれど。だから、僕をひとり置いていきます。ちょっと小さいかも知れないけれど、君の事が大好きだよ。さようなら。名前を食べた金魚は何処かへ行ってしまった。
 さあ行こうかピンクのクジラ、シャチが遮断機を跳び越えて来る前に。

 『ぼくはなににでもなれるんだよ』
 ピンクのクジラはそう言った。
 『ぼくがクジラということは、きみはどうやら、みずが、すき』
 その通りだよ、だから、あそこは、好きだったんだよ。
 『けれどもきみは、イルカをおもいだしてしまったね』
 だって、友達だったんだ。
 『きんぎょになまえを、あげてしまったね』
 だって、もう要らないもの。
 『そうだね、もういらないね』
 うん、要らないよ、意味無い。
 『いみのあるものが、ひつようかい』
 僕は、欲しかった、酸素と同じ位。
 『それじゃあ、すみにくかったろう、あそこは』
 そうでもなかったよ、慣れてしまった。
 『でも、もう、いい?』
 うん、要らない。
 『それじゃあいこうか』
 いいよ、何処に?
 『ここよりもっとうえの、くもののはらへ』
 野原で君は泳げるの?
 『おまかせあれ』
 うわあ頼もしい。

 :終:

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