伍

 夜も更けてから、先生は蔵の鍵を取り出した。久し振りに、今までの記録を纏めて見るのだと云う。
「穂積君、今日もお疲れ様でした。ゆっくり休んでください」
 就寝の挨拶の後、先生はそう云って蔵の方(この家は蔵を囲むように建てられていて、家の中に蔵へ入る扉がある)へ廊下を渡って行く。洋燈の淡い光が暗い廊下の角を曲がって見えなくなった。僕は自分の部屋の襖を閉めて、寝台に横になる。
 先生は、ひとつ夢を見ると、暫く眠らない。眠れないのだと云う。先生が眠るのは、夢を見る時だけで、その眠りは前触れも無く訪れ、一瞬にして意識を奪う。だから、その眠気が来ない限りは起きているしか無いのだ、と以前聞かされた。
 僕は毎日眠る。僕には先生のような、耐え難い眠気に一瞬で溺れるような眠りは訪れない。僕には、境界が曖昧でぼんやりとした現実の続きしか、訪れない。それでも眠くも無いときに無理に目を閉じて、惰性に任せて眠るのは、いつもの悪夢よりも、暗い世界がそれだけで怖いからだ。先生は、この深い闇をどうやってひとり、過ごすことが出来るのだろう。眠りの訪れないひとりの夜は、僕には耐えられない。だから、僕はまた目を閉じて、自ら眠りの海に身を沈める。まるで入水自殺だ。いくつかの色が交錯して、次第に意識が薄まっていった。『今日も夢の中には、』そこまで考えて、僕の意識は沈黙した。
 この日の夢も、僕は月と一緒に夜に置き去りにしてしまった。もう思い出すことは出来ない。大した夢では無いと解っていても、少しだけ、残念だった。

:終:

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