肆

 散歩の途中で、先生は神社に立ち寄った。何でも、ここにはたまに知り合いの狐が居るそうなのだが、本当なのだろうか。じゃりじゃりと境内の砂利を踏みしめて、先生は器用に木陰だけ伝って社の前に立った。社の後ろには鬱蒼とした雑木林―その直ぐ後ろは更に暗い山―が広がっている。
「ああそうだ、狐と云えば」
 急に、先生が呟く。
「はい?」
「狐と云えば、ですね、穂積君。狐の窓、って知ってますか?」
 先生は両手の指を、中央に四角い窓が出来るように奇妙に組み合わせて、こちらを振り返った。しかし生憎、僕はその存在を知らなかった。首を横に振ると、先生は楽しそうに説明を始めた。
「不思議なことがあった時に、この窓を作ってそれを覗くと、異界が見えると云われています。つまり、向こう側の(このとき先生は指を解いて、奥の雑木林をすいと指差した)ひと達が、見えるそうなんです。例えば、晴れた日に雨が降るのを“狐の嫁入り”と云いますが、晴れの日に雨が降るというのは不思議な事ですよね?だから、何か私たちが普通には見られないものが事を起こしているのだろう、そう考えた人が、この窓を作って、雨を覗いた。すると、其処にはとても美しい狐のお嬢さんの、豪華な嫁入り行列が見えた。ああ、ではこの急な雨は、このお嫁さんが人間に姿を見られないように降らせたものなのか、と。そんな事があったから、晴れの日の急な雨は、狐の嫁入りと云うんですよ」
 そこまで饒舌に話して(途中から論旨がずれていた気がするけれど)、先生は言葉を止めた。僕の方を見て、何かを待っているような表情。ああ、これは、此処で授業が始まるのだ。僕は頭の中の質問を整理して、先生に話す。こういう時は、どんなに下らない質問でも良いから兎に角思ったことを述べるべきです、と云うのは先生の談。
「先生、どうして狐のお嬢さんは、わざわざ雨を降らせるんですか?」
「どうして、と云うと?」
「ええと・・・そもそも、狐の行列と云うのは、そう云う雨のような仕切りを作らないと、人間に見えてしまうものなんですか?」
「そうかも知れません。現に私達は狐の姿を見ることが出来ますから。でも、位の高い狐は、姿を消すことも出来るそうですよ」
「では、仮に見えてしまうとして、仕切りを作るのは、こちら側と向こう側の領分を分けるためですか?」
「多分に、その可能性はありますね。彼等は境界を重んじます。どんなに親しかろうとも、こちらはこちら、向こうは向こうの流儀があって、それらが違うのを、彼等は知っていますから。ですからきっと、天気雨と云う不可思議な現象を起こして、人間を寄せないように知らせるんです」
「え?じゃあ・・・見ちゃ駄目じゃないですか!」
「そうなんですよねぇ。本当は覗き見はいけない事なんですけどね。まこと、人間の好奇心は恐ろしい」
 恐ろしい、と云いながらも先生はにこにこと笑っている。仮にも此処は神社の境内の中なのに、こんな事を話してもいいものだろうか。この人にはちょっと恐怖心が足りないような気がする。
「偶然嫁入り行列を見てしまった人間を宴に招き入れたって云う話もありますけどね。ただし、そこにあるものは持ち帰ってはいけないとか。まあ、嫁入り道具持ってきちゃいけませんよね」
「招かれた人は、ちょっとした例外ですか」
「おめでたい席ですからね」
 そうして授業がひと段落すると、綱の先のノエルが綱を銜えて引っ張った。もう大分暗くなった木陰の中に、彼の漆黒の毛皮は融けるように馴染んでいる。
 夕方の生温い風が境内を走り抜けた。首筋をぞわりとなぞられる様な感覚。その風に雑木林の梢はなぶられ打ち合わさり、抱いた闇の中に大きな波の音を立てた。少し、この場に不気味さを覚える。本来僕は、こう云った木々の中の暗闇は好きではない。雑木林から目を逸らすと、先生が直ぐ横に立っていた。
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか。長居をしすぎましたね」
 鳥居をくぐるまで、何故だか僕は後ろを振り返る気になれなかった。
 夕方の日は紅く低く、影を長く伸ばしている。西日を後ろに背負って、田圃の畦のような道を歩く。道中、先生はまた狐の窓を作って遊んでいた。
「そう云えば、どうして狐なんでしょうね」
「狐の窓は妖怪変化を見抜く術とも言われています。私たちが一番知っている変化の動物と云えば、狐でしょう?それか、見抜きの術を狐の神通力に似たものと考えたのかも知れませんよ」
 今度は窓を崩して狐の影絵。地面に長く伸びた狐の鋭い目が遠くからこちらを見ている。ノエルの影の鼻先と、影狐の鼻先がちょこんと触れた。
「そうだ、穂積君、言い忘れてましたが」
 狐を僕の方に向けて(そっぽを向かれたノエルの影は少しだけ淋しげだった)、先生は云った。
「正面玄関のお客様を、狐の窓で覗いてはいけませんよ」
 正面玄関の客。それが指す人物は限られている。しかし、彼等をどうして窓で覗いてはいけないのだろうか。礼儀として当然反している事だから注意した訳ではないだろう。それ位、子供ではない僕はわきまえている。では、どうしてだろう。これではまるで、そう。
「まるで、先生は彼等が人ではないと知っているみたい、ですね」
 冗談半分に出したこの問いに、しかし先生は曖昧に微笑んで一言、さあ、どうでしょう、とそれだけしか答えなかった。その後先生は僕を見て、真剣に考え込む僕に、驚いたように云った。
「穂積君。まさか本気にしてないですよね?」
「え、嘘だったんですか」
「まさか、冗談ですよ」
 これは、どっちの発言に掛かっていたのだろう。本気にしていないかの問いが冗談なのか、人で無いのが冗談なのか。しかし、たったひとつ、確実な事がある。
「・・・先生、僕で遊んでますよね」
「ああ、分かってしまいました?」
 悪びれもせず、先生はそう云って相貌を崩した。本当に、子供のようだ。
 そうこうしている内に、もう家は目前だった。ノエルを庭に繋げに行く。庭を立ち去る時に彼の物足りなげな視線を感じたけれど、もう付き合ってやる体力は無い。
 夕飯にはしっかりと焼き魚を取り入れた。食事時の先生は見るからに上機嫌で、嬉々として魚をつついていた。