: 死に損なった男の話 :

「みんなそう言うよ。お前は幸運だった、もう少しでお前も他の奴らみたいに死んでいた、ってな」
 目の前に座っている男は、何とも言えない笑みを浮かべた。
「でもなぁ」
 ふと視線を逸らして、呟きに近い声で彼は続ける。
「俺にはどうにも、これが最大の不幸に思えて仕方が無い」
 彼の、長袖のシャツから覗く手や首には大きな傷の端が見て取れる。服の下にはもっとあるだろう。
「最初は、あのでかい戦争の時だったよ」
 そこにその時の傷があるのだろうか、服の上から脇腹辺りに手を置いて、彼は静かに語り始める。

 俺はあの戦争の時、自分から志願して兵士になった。手柄を立ててやるって、俺と同じそう云う奴はたくさん居たよ。今思えば馬鹿な事したもんだ。でもあの時は・・・そうだな、そんな雰囲気は少しも無くて、みんな期待に満ちた目をしてた。まさか、隣国とやり合う事になるなんて思いもしなかったんだからな。隣に友人を持つ奴は結構居た。俺もそうだった。戦争が始める前にやっぱり、国に帰っちまってな、それっきり。
 市街戦は最低だった。奇襲した先では何の覚悟もしていない女や子供の死体も転がってた。あれは本当に嫌なものだった・・・何せ、自分の国にも同じような景色があるんだ。ここでやる事に何の意味があるんだとも思ったが、手が止められない。相手もこっちを見つけたらぶっ放して来るんだからな。その内頭がぼんやりしてきて、音が聞こえなくなった。もう自分がどこを歩いているんだか解らなかった。手だってほとんど感覚が無くなってた。もうどこかで休みたい。そう思って、隠れられそうな家の残骸を探した。
丁度近くにあって、助かったと思って入ったら、先客が居た・・・もう冷たくなってたが。誰だって、死体なんざ近くで見たくないだろ、戦場に居てもそうなんだよ。いくら慣れてもどこか頭の奥の奥の方が、見るのを怖がっているんだ。それで、他を当たろうと思って、振り向きかけたんだが、なんとなく、その死体が気になった。そいつの腕だ。手首に腕時計をしていた。その腕時計・・・解るだろう?あいつが国に帰る前にしていた腕時計と同じ型の奴だったんだ。もちろん、そんな時計いくらでも転がってる。でもその時は、それがあいつの時計に見えて・・・外して手に取った。その時だ、ここ・・・この脇腹をやられた。後ろからだった。そりゃそうだ、瓦礫の中で道に背を向けて突っ立ってる敵兵なんて格好の的だろうよ。俺を刺したのはまだチビのガキだった。ああ、悪いことをしたな、と思って・・・そこから意識が飛んだ。
 意識が戻ると、変に明るいところに立っていた。地面が白くて・・・空がこう、物凄く高くて深い空だった。このまま宇宙に墜ちるんじゃないかって程、妙に澄んでいて・・・じゃあここは雲の上なのか、と気付いた訳だ。周りを見回すと、遠くのほうに変な線が見える。近づいてみると、それはもう数え切れない位の人の行列だった。どこから始まってどこで終わるのかも見えない行列だったんだが、音がしない。衣擦れの音も足音も、ささやき声の一つも無ければため息も聞こえない。全くの無音の中で、その行列は脇目も振らずに歩き続けていた。あと5メートルってところで、俺の前に空と同じ色のドアがあるのに気付いた。ドアの横はずっと透明な壁で、ドアはいくらその凍ったみたいに冷たいノブを回しても開かない。
 暫く扉の前で行列を眺めていたが、ふと人の気配を感じて振り返った。そうしたら、向こうからぞろぞろと人がやってくる。見覚えのある制服だった。中には見知った顔もあった。でもやっぱり、誰も音を立てない。余所見もしていない。その中に・・・あいつも居た。何度も大声で呼んだよ。声が涸れるかと思った。全く音がしない中で、俺の声は妙に浮かんで、くぐもって聞こえた。俺はそこで唯一の音源なのに、それでもあいつは何の反応もしなかった。悔しかったよ。虚しかったし、何より悲しかった。俺は今どうあがいても、奴に気付いてもらうことも出来ない。他に同僚も居た。誰も俺を見なかった。奴らは俺が通れなかった透明の壁を簡単に抜けて、長い長い行列の中に入っちまった。いくら叩いても罵倒しても、終にドアは開かなかった。
 膝をついたらそこから体が沈んでいった。目が覚めたらベッドの上だ。戦争はもう終わっていた。命を取り留めた俺は、皆から運が良かったと言われた。

「だけど俺には、俺一人だけ仲間はずれにされたとしか、思えなかったな」
 そうして彼はまた、あの微妙な笑顔を浮かべる。
――時計は?
「ん?」
――時計は、結局友人のものだったの?
「ああ・・・今持ってるが」
 背もたれに掛けた上着の内ポケットから、彼は時計を取り出して見せた。まあ見てみろ、と言う。時計の裏には、誰かのイニシャルらしき文字が彫られていた。
――違う人のイニシャル?
「どうだろうな・・・名前だけ、忘れっちまって、もう判らない」
 時計をポケットに戻して、彼は言う。情けない話だ、と。そうしてグラスの中の酒で唇を湿した。
「次は飛行機事故だった」
 この時の傷が一番多い、と言った彼は、袖を捲って見せた。腕には、縦に裂傷の痕が残っていた。

 戦争が終わって暫くして、旅行が出来るようになった。ずっと国に居ても、もう楽しいことも、心を動かされることも無かった。まあ、つまり、俺は逃げた訳だ。悪い事だとは思わない。誰だって忌まわしいものをずっと見て居たくは無い筈だ。国から出て、違うものを見れば、多少は気分が軽くなると思っていた。結局、そんな事は無かったんだがな。
 乗ったのは、6月に南の島へ行く便だった。有名な事件だ、知ってるだろう?その事故を起こした便に、俺も乗っていた。変な気分だった。普通に飛んでいる時には、そこが空中だなんて思いもしないんだが、事故が起こって気体が揺れると、本当に何も取っ掛かりの無い空中にいるんだと自覚する。島に墜ちる直前、放り出されて一瞬目に入ったのが、ぎらぎら光る太陽と、ずっと続く浅く透明で美しい色の海だった。状況も忘れて、きれいだと思ったよ。この景色を見て死ねるなら良いとも思った。
 地面に落ちる嫌な音がして、目を開けたら、また例の雲の上だった。今度は雲の端近くに俺は立っていて、雲の下には煙を上げて燃える飛行機が見えた。浜には鮮やかな色の花が咲いていて、島の周りはやっぱり美しい珊瑚礁の海だ。不思議と、その美しい海と島の中で煙を上げる飛行機さえ、美しく見えた。雲の上の足元にも、その島に咲いていた花が落ちていたな。多分、飛行機と一緒に燃えた花だろう。どんどん増えていった。
 そうしてやっぱり、遠くには行列が見えて、近づいてもドアが邪魔して向こうへ行けない。そしてまた、後ろからさっきまで一緒に居た人々がこっちに向かって来るんだ。呼びかけても反応は返ってこない。彼らは、無言で無音で、透明な壁を通り抜けて行列に加わっていってしまった。また俺は仲間はずれだ。ドアノブは相変わらず冷たかった。通り抜けていく人々は、ここにドアがある事すら知らないようだった。それで気付いたらまた病院のベッドの上だ。またしても奇跡の生還だと言われた。喜んでいたのは周りの人間だ。地面に引きずり落とされた体は絶え間なく痛みを訴えていた。

「こんなに苦しいのに、どうして生きていなくてはいけないのかと思ったよ」
 どこか遠くを見るような目で男は呟く。グラスの中身は半分に減っていた。心なしか、饒舌になっているようでもあった。けれど、浮かべた不思議な笑みは変わらない。
「・・・でも、この時ひとつ、良いことに気がついた」
――何があったの?
「あのドアと壁なんだがな・・・ドアは色が薄く、壁は軟らかくなってた」
 もしかしたら、その内薄れて、薄れて、俺も向こう側に行けるかも知れない。と、そこで初めて彼は声を出して笑った。低く短い、乾いた笑い声だった。
「最後は、この前の洪水だ。やっぱり、今までと同じだった」
――ドアは?
「向こうが透けて見えた。あと少しで向こうに行ける・・・そんな感じだ。壁も、ゴムを薄くのばしたような感じだった」
 グラスは空になった。心なしか彼の声は楽しげだ。
「ああ、こんなに良い気分なのは、学生の時以来だ」
――それは、死ぬのが解っているから?
「そうだよ」
――僕が来るのを知っていた?
「こう変なことを体験していると、変な勘が働く」
――怖くないの
「怖くない。寧ろ楽しい位だ」
 さっきより生きている笑い声。それに答えるように、空になったグラスの中で、氷が高い音を立てた。
――あんたは、変な人だ
「お前も変だ。これから殺す人間の戯言に耳を傾けて時間を費やすなんて」
――殺す気なんて無い
「いや、お前は殺すよ」
――どうして
「緊張している人間は、パニックを起こしやすい」
――緊張なんてしていない
「・・・どうだろうな」
 いつの間にか、生きている笑い声は狂気のそれを含んでいた。急に、背筋に寒気が走った。銃を握った手が汗ばんでいる。早くこれを手放さないといけない。そうでないと、
「良いんだよ、俺は死にたい。良いじゃないか。お前は俺を殺して、そこらにあるもの全部盗って行けば良い。どちらも困らんだろう」
 彼はゆらりと椅子から立った。その手には、拳銃。
「それか、俺を殺してくれない役立たずには死んでもらうしか、無いんだがな」
 残念だ、とても残念だ。笑いながら、ぶつぶつと呟いた彼は、照準を僕の額に合わせた。指先に力がこもるのが見える。
 次の瞬間の大きな音が、自分の叫び声だったと気付くのに、数秒かかった。男の手にあった拳銃の先からは火が出ていた。僕の拳銃からは実弾が出ていた。彼のはライターで、僕のは本物の銃だった。実弾は彼の心臓に当たっていた。倒れる瞬間、彼の口が動いた気がした。悪いことをした、と聞こえたが、きっと気のせいに違いない。倒れた彼は、とても満足そうな顔だった。動く気配も無かった。どうやら、念願のドアの向こうに行けたらしい。何故だか、ずるい、と思った。
 僕は何も盗らずに彼の家を後にした。
 街の外れの外れにある彼の家にはこれから先誰も来ないだろう。

 :終: