: 星を食べるキリン :

 少年が見渡す限り、雲が原はどこまでも白と灰色だった。けれども少年は、それが殺風景だとも、不快だとも思わなかった。寧ろ、雲が原の淡色の濃淡は遠い国の筆筋に似て美しく、下草は(無論、雲であるのだから)しんなりと柔らかく、朝露に濡れそぼった地上のそれよりも、ひやりとして気持ちが良いくらいであった。少年はその上を裸足で歩いている。靴をどこに置いて来たのか。彼はそれを覚えていない。少年の隣には蹄を持った細長い脚が四本。少年の隣の彼は、優美に長い首を持っている。

「ねえ、キリン」周りを見回して、少年は云った。
「なんです?」キリンが答える。
「ここら辺に、何か植物は無いの?」
 キリンは立ち止まり、その長い首でもって辺りをぐるりと見回して、ふむう、と思慮深いため息(鼻息だろうと思われる)をつく。少し間をおき、もう一度首を廻らせて、答える。
「あなたは、なにかしょくぶつが、みたいので?」
「・・・つまり、無いんだね」
「しばらくいけば、あるいは」
「見たこと、ある?」
「しばらくまえ、むかしに」
「・・・そう」
「ええ」
 少年とキリンは、周りを見回すのを止めて、また歩き出した。そうして暫く。少年がまた口を開く。
「木が無いんだとしたら、君は何を食べているの?」
「わたしですか、ふむう。しょうねん、あなた、おなかはすいていますか」
「僕?ええと・・・空いてないみたいだ。おかしいな、何も食べてないはずなのに」
「わたしもです」
「じゃあ、君は食べる必要が無いのかい」
「いまのところは。でも、すきなもの、あります」
「へえ、何?」
 少年が興味を示したのが嬉しかったのだろう、少し誇らしげに首を伸ばして、キリンは答える。
「ホシ、です」
「星、」
 思いも寄らなかた言葉に、少年はわずかに、困る。
「それは、宇宙に浮かんでいる、あの星と同じに考えても?」
「ええ、だいたい、そのようなものです。けれど、すこし、ちがう」
「違う?」
「ええ。おそらのホシには、いくしゅるいか、あるのですよ」
 頭上高く抜ける宇宙に向けて、ふい、と鼻を向け、キリンは少し、遠い目をする。少年もそれに倣って、上を見る。空気は宇宙に向けてすきっと冴え渡り、紺碧の上層には、金剛石のこまかな欠片を一面ばらまいたような星が、きらりきらりと輝いている。上を見つめたまま、キリンはなかなか話を切り出さない。少年はキリンの云いたいことを考えようとしたけれど、どうにも考え至ることはできそうにない。しまいには、頭上の無垢な紺碧に、言葉も何も全て吸い込まれてしまうような気までして、少年は考えるのを止めた。目は上空を見据えたまま、少年は背中を雲の下草に預け、キリンの言葉に思考を任せる。
「――ここは、くもがはらですが、じつは、このうえにも、したにも、たくさんのくもがはらが、あるのです。まあ、それぞれきっと、めいしょうはちがいましょうが。ここをふくめて、そうですね。うえには、みっつほどでしょうか」
「でも、見えないよ」
 少年は目を凝らす。けれど、空は相変わらず曇りない。
「そうなのです。ですから、ここでみえるホシというものも、そうがちがえば、またちがうものなのです。ですから、した、ええ、つまり、ちじょうでみえるホシとは、すこうし、ちがうのです。ちじょうでみて、カンソクしているホシは、おおきなエネルギーたい、もしくは、がんせきや、こうせきや、あるいはガスのようなものでできた、なにかきょだいで、むずかしいものだと、いぜんききました」
 誰に、とは少年は聞かなかった。その質問はいささかここには場違いな気がした。その代わりに、そんな感じ、と答えて、少年はキリンの言葉を促す。
「ええ、ですから、それは、ちじょうの、ホシなのです。ここのホシとは、ちがう」
「じゃあ僕らが地上で見ていたのは、嘘の星だったって事?」
「いいえ、いいえ、ちがいます。すべて、ほんとうなのです。ただ、つながりかたが、ちがうだけで」
「ううん、難しいね」
「そうでしょうか。あなたがここにいるのを、したのひとびとが、みることがかなわないのと、おなじようなものなのですが」
「ああ、それなら解りそう」
「それはよかった」
 目を細めてキリンは微笑み、すっと長い脚を折って、少年を見やる。それを見た少年は蒼い目を輝かせて、大きく反動をつけて起き上がり、ぽん、とキリンの背に乗った。背中にやわらかい重さを確認して、キリンはゆっくりと立ち上がり、ゆるゆると歩き出す。少年はキリンの背で揺られるうちに、眠ってしまった。
 キリンの足元は、しばらく行くと、下草というよりは、静止した漣のようなものに変わっていった。ああ、まるで、すきとおったなみだの、こおったようではありませんか。キリンは思う。キリンは、遥か上空で声も無く、さみしい、と泣く幼い主を想う。まだ、会ったことの無い主を想う。かれは、しょうねんの、このやわらかいおもさよりも、かるいのでしょうか、それとも、おもいのでしょうか。それすら、キリンは知らなかった。けれど、その、さみしい、を無視することは、キリンにはできない。
「そうですね、ひとつうえのそうを、いちどだけ、みたことがあります。オレンジのひかりをともしたれっしゃが、あまのがわをはしっていました。かれらは、きっと、いろいろの、ここのものとはちがうホシをみて、せいざをみて。いくにんかは、ほんとうのてんじょうに、いくのです。それをほんにかいたひとが、ちじょうにはいるそうですね。ほんとうのてんじょうには、ええ、きっと」
 少年が眠り込んでいるのを承知で、キリンは話し続ける。それが少年に向けた言葉なのか、それとも別の何かに向けたものなのか。キリン自身にもわからなかった。
「ほんとうのてんじょうから、きこえるのです。さみしい、さみしい、って。ですからわたしは、そのゆりかごをゆらして、なぐさめてあげたいのです、どうにも」
 そうして、キリンは背中の少年をちらりと見て、微笑む。少年の意識はまどろみに戻ってきたようだ。
「星は、おいしい、の?」
「ええ、とてもとうめいで、すきとおったあじがします。ほんとうにすきとおって、けれど、あまい。ソォダのようです」
「じゃあ・・・その泣いている子にも、わけて・・・あげなきゃ、」
「ええ、ええ。そうですね。とてもいいかんがえです。ときにしょうねん、ホシをたべますと、わたしのからだはひかるのですよ。ホシのとうめいが、ぜんしんににしみわたって、そうなるのです」
「それは、きれい、だ・・・」
 そこで、少年はまた深い眠りに落ちた。等間隔の寝息が聞こえ始める。キリンは少し脚を止めた。
「・・・しょうねんの、さがしびとも、」
 そこまで云いかけて、キリンは口を噤む。この後に控えていた言葉は、いささか場違いな気がした。
 そうしてキリンは歩き始める。見えない層を幾重にも抱いて、宇宙まで突き抜ける空を見つめながら。いちばん上で自分を待っている、見も知らぬ主を想いながら。背中に確かに、重さを持って寝息を立てる少年を感じながら。

夢を見たんだ、キリン。
そこには僕と、
君と、
それから小さな男の子と、
花柄のゾウと、
名前が思い出せない、僕の大切な人と、
その子の妹がいた。
みんなで星を食べていたんだ。
君とゾウは、内側からひかっていて、とても美しかったよ。
ああ、あれがほんとうだったら、良かったのにね。

(ええ、いつか、ほんとうになるのです)

 :終: