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「センセイ、また、その絵ですか?」
 背後からいやに明るい声が聞こえる。千寿だ。勝手に入ってくるなといつも言ってあるはずだが、彼はそんな事を聴いちゃ居ない。
「また、とは随分じゃないか。その絵って、どの絵と何処が同じだというんだ」
 全くもって分からない。どれも色遣いもテーマも違う絵のはずだが。
「解かりません?ほら、だってまた、入ってるじゃないですか」
 ほら、の所で彼が指した、絵の一箇所を見て、ああ、なるほどと得心した。
「手か」
「そうですよ。センセイ、どんなに違う絵を描いても、絶対この手を入れるじゃないですか」
 だからずっと連作だと思っていた、と千寿は笑った。勝手に決めないで欲しいものだ。でもまあ、あながち外れではないかも知れない。
「ふむ、なるほど・・・」
 確かに、よくよく思い返してみれば、私はほとんど、必ずと言って良いほど、絵の一部に手を描き入れている。時に上から差し伸べるように、何かを掴もうとしているように、何かを突き放すようにも見える。そうすると、これらの絵を連作だと思っていた千寿が、またこの絵か、と思ったのも納得がいく。
「なるほどなぁ」
「まさか、今気づいたなんて言いませんよね」
 奇妙なものを見る目つきで、千寿が問う。その視線に、少し答えに窮したが、ありのままを答えた。
「今、気づいた」
 すると、千寿の視線が変わった。奇異なものを見る目から、信じられないといった風に、そして哀れむような目に。
「こういっちゃ何だけど・・・センセイ、頭は?」
「失礼な。まだ呆ける歳ではない」
 自分の側頭部を人差し指でこつこつと突付く千寿を他所に、私は左手で絵筆を執る。
「そう言えば、絵の中の手はいっつも右手ですけど・・・もしかして、センセイの」
 そこまで言って、急に千歳は私から目を逸らした。言ってから後悔したのか、ばつの悪そうな視線をちらちらと私の右肩に寄越す。もちろん、その右肩から先に、腕は無い。白い長袖のシャツの袖が、だらんと下がっている。そんな表情をするなら、もとより聞かなければ良いものを。たまにその正直さが羨ましくなる。
「もしかしたら、そうかも知れんな」
「えーと・・・うう、すみません」
 明らかに目を泳がせて、千寿は小さくなって謝罪の言葉を口にした。
「どうして謝る?別段、気に触ることは言っていないが」
「だって、失礼なこと、言っちゃったかなーって、思いまして」
「失礼な事ならば、いつも言っているだろう」
「うう・・・すみません」
 まあ良い。そう言って頭を絵筆で小突いてやった。すると、にわかに顔色が戻る。つくづく分かりやすい奴だ。それでも、一応は罰と称して二人分の珈琲を淹れさせる。とは言っても、それはいつもの仕事なのだが。
「でも、どうしていつも、右手を絵に入れるんです?」
 危なっかしい手つきでカップを運んできて、千寿は絵を覗き込んだ。
「これは、この絵の風景は、私の右手が見ている世界なんだ」
「・・・はい?」
 訝しげに、千寿が私の顔を覗き込んだ。
「何、簡単な話さ。あれは見えはしないが、まだ存在しているんだよ。但し、此処ではない別の場所に。しかし私と繋がっている・・・感覚があるし、たまに、痛むんだ」
 これを聞いて、いよいよ意味が分からないといった風に、千寿は首を傾げる。
「それって・・・幻肢、とか言うんじゃありませんでしたっけ」
「ふむ、多分、それだ。まさに幻の腕だ。私の与り知らぬ所で動いて、これは気まぐれに私に情報を伝える。私は、それを絵に仕立て上げている」
 最後の方は、柄にも無く少し得意気になってしまった。
「センセイ、よほど幻想小説がお好きなんですね」
「何だ、信じていないのか?」
「信じたいけどなぁ・・・うん、信じたいんですけどね」
 なんとも形容しがたい表情で、千寿は笑った。
「別に、すべて信じなくとも良い。お前は、こういう人間もいるのだと知っていれば良い」
「じゃあ、そうします。センセイの絵の良さは、変わりません。僕は楽しいですよ。絵を描く邪魔をしました。ここで見てますから、存分に筆を振るってください」
 そう言ったきり、千寿は大人しくなった。珈琲を飲む時意外、大理石の彫像のように動かない。たまに珈琲をすする音が聞こえる中、彼の言葉に甘えて私は筆を動かすことに専念する。