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 不思議なことに、筆を持ってキャンバスに向かうと、現実の景色とは違うそれが網膜に映り込み、現実の風景に重なる。半透明の膜の向こう側で、微かに揺らめくその景色を、私は左手を動かして描き留める。失くした右腕が向こう側でうずく。熱を持ち、早く動かせとばかりに痛みを伝える。焼け付くような、我はここに在り、と主張するような痛み。
 知らず、声が漏れたのだろう、気づけば千寿が横から顔を覗き込んでいた。
「センセイ・・・大丈夫ですか、どうかしました?」
 目が心配そうに揺れている。額の汗をぬぐって、焦点を合わせる。手元のパレットには、無意識に混ぜ合わせた絵の具の色が広がっていた。
「ああ、心配要らない。いつものヤツだ・・・ああ、それにしても、もうこんなに時間が経ったのか」
 時計を見ると、描き始めてから裕に3時間は過ぎていた。それまでずっと、千寿は椅子に座っていたとはいえ、動かずに見ていたのだろうか。
「さて、そろそろ切り上げるか。ずいぶん、待たせてしまったな、すまない」
「いいえ、僕はセンセイの絵、見てるの好きですから。それより、そろそろ夕飯にしてしまいましょうか」
「お前、ここで食べていく気か」
「だって、外は土砂降りですよ?帰れません、嵐です。今日は泊まってきます」
 確かに、外を見ると、横殴りの雨に窓硝子がガタガタと揺れている。どうして今まで気づかなかったのだろう。
「ちょっと前、いきなり降り始めたんですよ。センセイ、夢中で気づかなかったでしょう」
 てきぱきと台所で動きながら、千寿が説明する。いつの間に間取りと台所の勝手を覚えたのだろうか。油断がならない。しかし、食事を任せられるのは有り難い。数年前からしているはずの自炊はあまりにも目に余るものがあった。
「そんなに熱中してたか」
「ええ、そりゃあもう。まさに夢中、ですよ。これなら、さっきの話も頷けます」
 腕を組んで、納得したように千寿は首を縦に振った。
「さてと、適当に作りましたけど・・・」
 ごとごとと音を立てて、千寿は皿を小机に置く。しかしやはり手元が危なっかしい。案の定というべきか、その手からフォークが滑り落ちる。私はとっさにそれを捕まえようとして、手を伸ばしたが――フォークは手をすり抜けていった。伸ばした手は、右手だった。深いため息。フォークは音高く床に落ちて、動かなくなった。
「悪いな、取れなかった。これが皿でなくて良かったよ」
 今度はしっかり、左手で取る。そのまま小机の上に。
「・・・洗わなくていいんですか?」
「何、死ぬ訳でもあるまい」
「そんなものですかね」
「そんなものだ」
 フォークを皿に突っ込む。突っ込んだ先で、水の音。おかしい。皿の中身を見る。
「・・・しかし、これはスープじゃないのか」
 皿の中には、いかにも旨そうに湯気の立つ、野菜の多く入ったスープが盛られていた。しかし、フォークでスープは飲めない。それに気づいたのだろう、自分の手元を見て千寿は素っ頓狂な声を上げた。慌ただしく台所へ駆けていく足音。それにしても彼はよく動く。