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 ちゃんとスプーンで食べた夕飯は、やはり旨かった。自炊するよりもよほど良い。この歳で、何年も一人身で自活が出来ないのも、如何なものかと思うが、思わなかったことにする。
 雨は未だ止む気配は無い。本当に千寿を泊めていくことになりそうだ。この家は狭いというのに、厄介なことだ。食器の片づけをする音を聞きながら、ため息が零れた。けれども気分が悪い訳ではない。そういえば、久しぶりに、自分以外の立てる生活音を聞いた気がする。
「センセイ!大変です」
 しばらく雨の音を聞いていると、二階に行っていた千寿が、一段飛ばしで階段を下りてきた。階段がぎしぎし鳴る。いつ壁に書けた絵が落ちるかと思うと気が気でない。
「足元に気をつけろ、絵の具が置いてある。どうしたんだ」
「え?本当だ。それより、大変ですよ」
「だから、どうしたんだ」
 再度聞き返すと、千寿はきっと真面目な顔をして私を見据えた。そのちょっとした気迫に少し身構える。
「布団がしけってます」
 途端、身構えた体の力が抜けた。
「何だ、そんなことか」
「そんなこと、じゃないですよ。重大な問題です」
「どうして」
「僕の寝るところがありません」
 真面目顔を崩さずに言われると、どうにも笑いそうになる。どうにかそれを抑える。
「ずっとしまい切りだったからな。仕方ない、私の布団を貸すから、そこで寝ればいい」
「センセイはどうするんです」
「まだ絵を仕上げていない。寝ようにも寝られん」
 半分は本当だ。まだ完成していないうちは、どうにも寝つきが悪い。早く描き上げろと右手がせっつく気がする。それが仕上がらないと、いつまでも痛みに悩まされる。全く、元は私の一部だったくせに、自由になった途端これだ。たまったものではない。私に見られぬ世界の自慢でもしているのだろうか。
 千寿が2階に上がる足音を背後に、私は絵筆を執る。絵の上に意識を重ねる。半透明の膜。向こう側には、右手の泳ぐ世界。青い。筆がそれをなぞる。私は右手の記憶を旅する。暫しの沈黙の世界。ふと、周りが明るくなった。現実の、洋燈の橙色。薄地の掛け布団を肩にかけた千寿が後ろに立っていた。
「センセイ、まだ寝ないんですか」
「そうだな、まだ出来てない」
「少し休みませんか」
「・・・そうだな、そうしよう」
 やはり、流石に疲れた。背中を反らすと、背骨が小気味良い音を響かせた。これも歳のせいだろうか。
「ずいぶん出来てきましたね」
「ああ。そろそろ完成だと思う」
 キャンバスの上には、一面青い色が広がっている。上から光が射す、水の中の風景。右から手が伸びている。何かを掴むように。
「やっぱり、センセイの絵は良いなあ。海ですね。青がすごく、綺麗だ」
 千寿は食い入るように絵を眺めている。本当に分かりやすい奴だと思う。しばらく、青い絵を眺めていた千寿は、急に振り向いた。
「センセイ、今日の話ですけど」
 急に、そう切り出されても、私には何のことやら分からない。それを察したのか、彼は言葉を続けた。
「今日の・・・例の右手の話、です」
「ああ、そのことか。やはり、気になるものか?」
「ううん・・・気にならない、といったら、嘘です」
 申し訳なさそうにしながらも、もう既に千寿は洋燈を小机の上に置き、椅子に座っている。本当に正直なものだ。
「お前くらいの歳なら、知りたいと思うのも当然の理だろう。何が聞きたい」
 たまには、若い者の好奇心にも答えてやらねばならないだろう。
「センセイの、右手にまつわる全て」
 話してやるのも、良い。今まで誰にも話していない、私の右手の話を。失くしてなお、存在を誇示する右手の話を。私が話し始めると、絵を描いているのを眺めている時のように、千寿はじっと耳を傾けた。