: 蒼 :

 さあ、あれは何年前だったか、兎に角、夏。
 あの日は、僕は部屋で、読みつぶしてもう碌に読みもしない本に目を落としていた。

 * * *

 ふと、背後に人の気配を感じて、零は文字の列から目を上げた。
 首を曲げて少し振り返ってみると、視線の先に蒼弥が立っていた。いつの間に入ってきていたのだろう、ふすまに背中を預けている。
「兄さん、どうしたの、そんな所で」
 本を閉じて、椅子ごと兄の方を向いて、零は声を掛けた。しかし、返事が無い。
 蒼弥の黒曜石のような眼はどこか遥か遠くを見つめているようで、もう1度声を掛けてようやく、今やっと気付いたと言う風に、視線が零の上で焦点を結んだ。
「ああ、零」
「ああ、じゃないよ、ぼうっとしちゃってさ」
 ぼんやりと身の入らない口調で反応する兄に対し、零は少し口を尖らせて文句を言う。
「ごめん・・・そうだ、そう言えば、零」
「何?」
 こっちへ来い、と言うように、蒼弥の手がひらひらと宙を舞う。藍の単の袖から覗く腕は、着物の色も手伝ってか、内側からほの青い燐光を放つ白磁のように白く、ほっそりとしなやかだ。
 ああ、綺麗だな。零はそう思いながら兄の前に歩み寄った。
「どうしたの、何かあった?」
「いいや、何も無いさ。それより、零、星を捕りに行かないか」
 薄く整った口唇に微笑を浮かべて言う兄に対し零は、訳がわからない、と怪訝そうな顔をして、
「何処に?」的外れな質問をした。
「こっち。さあ、行くぞ」
 蒼弥は零の質問に曖昧に答え、ふすまをさっと開け、1人先に廊下に出て零を手招きしながら、彼が来るのを止まって待っている。こうされては、行くより他に無いだろう。

 そう云えば兄さんは昔から不思議な魅力を持っていたな。蒼弥の後について廊下を渡る途中、零は思い出した。
 生来色素の薄いなめらかな肌、さらさらと風に流れる髪は見事な濡れ羽で、睫の長い瞳は黒曜石のようだ。それに加え、ほっそりと華奢な体つき。少女と間違えられる事も少なくない。
 彼を初めて見る人間には、彼が人形のように感情が無いのでは、と思うらしい。しかし、彼はそれなりに良く笑い、拗ねた。時には激昂すらして、その度に周囲の人間は驚いたものだ。しかし、外に出て遊ぶと言う事は、やはりあまり無かった。どちらかと言えば、家の中で本を読んでいた。だから、傍目には、彼はとても静かな、自動人形の類に見えたに違いない。
 そう、蒼弥が、静かで、ともすれば無機質とさえ取れる美しさを持っていた事は確実だ。豪華な着物で着飾って動かないでいれば、恐ろしい程、展示品の精緻な人形と言う表現が似合ってしまう。眠っている時など、それは顕著に現れ、呼吸をしていないのではないかと思わせる。それほどに、恐ろしい程、計算されつくされたように美しい。
 その、触れればそこから崩れてでもいきそうな、または触れれば自分が凍り付いてしまいそうな、脆く危うげな美しさに、今まで多くの人間が心奪われてきただろう事は想像に難くない。
 そうだ、これまで何人の人間が、兄さんに心を盗られて行ったろう。そう考えて零は、くく、と喉で笑った。
「何か楽しいことでも?」
 前触れ無しに笑いを漏らした零に、振り返って蒼弥が問うた。
「いいや、特には。ねえ、星って何のこと?」
 その問いに、しかし蒼弥は意味ありげに、ふふ、と笑って答えない。代わりに、急かすように少し歩調を速めた。
 それについて暫く歩く。この家の敷地は、住んでいる零自身も呆れるほどに広い。さくさくと下草を踏んで、歩き続ける蒼弥を追う。この方角だと、母屋の横の雑木林に向かうつもりだろう。