: 零 :

「ああ、こっちまで来たのは久し振りだ。兄さん、ここへは良く来るのかい」
 薄暗く、しかし所々木漏れ日の注ぐ木々の間をすり抜けながら、零はそう声を掛けた。蒼弥はその問いに、少し窮したように、ちょっと考えてから、
「いいや」と苦笑いとも自嘲ともつかない曖昧な笑みを浮かべて、そう答えた。
「そう。ねえ、こんな所あったかな」
「・・・あったよ。でも、今は殆ど、誰も来ないんじゃないか」
 空を仰いで眩しそうに、木漏れ日に目を細めて、蒼弥は呟く。
「じゃあ、ここは僕と兄さんだけの秘密の場所だ」
 つい、と蒼弥の前に身を躍らせて、零が笑いかけると、蒼弥もそれにつられたように顔をほころばせた。
「そうだなあ。だけど、誰に秘密にするって言うんだ?」
「それは・・・ああ、緋彦さんとか」
 零が不機嫌そうにその名前を出すと、蒼弥は失笑を漏らした。緋彦は蒼弥の学校での友人だ。
「何であいつが?良い奴じゃないか」
「解ってないなぁ」
 解ってないんだよ、兄さんは。そう心の中に呟き残して、零は視線を上に上げた。
「何か見えるのか?」
「ん?栗鼠」
「何処?ああ、もう見えなくなってしまったかな」
 零と同じように上を見上げ、蒼弥が静かに息をつく。零はそれを見て、心の中で小さなため息をついた。
――そうだ、兄さんは解ってないんだよ。
 彼が、兄さんに手を伸ばしたがっている事、彼が兄さんのその綺麗な綺麗な白さに魅せられた1人だって事を。
 僕が、彼に兄さんを渡したくないって事、本当は誰にも触って欲しくなんか無い、その皮膚も髪も眼も手も足も、何もかも全部手元に留めて置きたいって思ってる事をさ。
 彼の手が兄さんに触れるたびに、僕の中の鈍い色の糸がごちゃごちゃに絡まっていくのを、兄さんは知ってる?いっそ、いっそ壊してしまえればどんなに楽か。これは、兄さんの近くに居る人間が感じる、ごく当然の感情だろうと思うよ。誰かに渡る位ならその前に自分が、ってね。
 それと、その無機質な美しさの中身を、その感情の流れ出る出所を、見たい。廃墟の中にヒトの痕跡を探し出して恍惚とするような、一種の焦燥に似た感情。兄さんの中身を見たがっている人間も持つ、ごく当然の感情だ。
 危ないよね、注意しないと。
 でも、兄さんはそれに気付いていない。
 気付くはずも無い。これらの感情は、僕等が安易に外に出してはいけないものだから。
 そして、そう。それに、気付かないから、蒼弥は僕の兄さんなんだ。