: 傷 :

 ばさり、という音で目を覚ました。読み止しの本が床に落ちている。いつの間にか寝てしまっていた。もう、日が暮れかけているのに。
 何だか随分と昔の夢を見ていた気がする。
 そう言えば、あの日もこの本を読んでいた。もう小さい頃から何度も読み続けて、読みつぶしてしまった、父さんの本。
 ああ、あの日は、あの後に緋彦さんが来たんだっけ。
 思えば、当然の事だけどあの時僕は驚かなかった。

 * * *

 零が巨木の空き地へ行ったあの日、零が部屋に戻って暫くして、たん、とふすまが勢い良く開いて、息を切らせた緋彦が部屋に飛び込んできた。
「何か、用ですか」
 不機嫌そうに零が応対すると、その不機嫌にも気付かないほど急いでいるのか、息も整えないままに緋彦が言葉を連ねた。
「零・・・蒼弥が、死んだ」
 緋彦の顔は蒼白だ。ぎりぎりで声を出している、と言うようなその言葉に、しかし、零は驚きもせず淡々と答えた。
「ああ、そうなんですか」
――驚きなんてしなかった。
 蒼弥の死体を見ても、零は悲しいなどとは感じなかった。
 むしろ、その血の色の抜けてより白く浮き上がるような、正に物質的な、それこそ完璧な人形となった蒼弥を見て、ああ美しいな、と感慨に耽った程だ。恐怖では無い、まるで聖域にでも足を踏み入れた時のような、むず痒い、焦りに似た感覚でそわそわと鳥肌が立った程だ。
 直接の死因は解らない、と医者は言った。蒼弥の全身についた傷は、魂が身体を離れた後についたものだそうで、直接の死因となると、ただ魂が抜けてしまったようだ、と。抜け出したそれは何年経った今でも、未だに見つかってはいない。
――全身の傷は、念願の蒼弥の中身を見た、誰かが丁寧に縫い合わせた傷口。
 その左胸の傷の下には、あるべきはずの心臓が無かったのだと言う。

 * * *

 そう言えば、あの時の緋彦さんの目にも、あの感情が浮かんでいたっけ。零はそれを思い出して、本の上に手を置いて、小さく嘲笑を漏らした。
 結局の所、蒼弥は、誰に殺されていてもおかしくは無かったのだろう。今でも、僕はあの緋彦さんの目の中の感情は思い出せるし、意識を少し戻しさえすれば、蒼弥の死体の美しさも、簡単に、鮮明に思い出せる。
 『中身』を失くしてもなお、蒼弥はあんなにも美しかった。その美しさを眼前に、あの日の僕は今まで掴みかけていた父さんの言葉の答えを、完全に掴むことができた。
 そう言えば、父さんは蒼弥を、自分の息子として周囲に紹介したことは無かった。じゃあ、やっぱり、そう言う事だろう。
――それなら、僕は。
 ふふ、と微かに笑って、零は読み止しの本を閉じた。父の遺した、彼の人形師としての技術を全て詰め込んだ本。技法から何から、全てこの一冊の中に入っている。もう数え切れないほど読んで擦り切れそうな本。
「あと少し。すぐに、迎えに行くよ」
 そう言って、零はすぐ後ろの空間を振り返る。机の上には、骨ばった鉄製の洋燈。
――ねえ、父さん、あなたの蒼弥も、こんなに美しかったのですか?