: 崩 :

 黒い天鵞絨の下に隠されていた物を見た瞬間、緋彦の頭の中は瞬時に虚ろになった。その情報が数瞬後に虚ろな脳に響き渡ると、思わず椅子から飛びのいた。
 蒼弥が、いた。黒い布の下には、椅子の上には、数年前に死んだ蒼弥が、虚ろの瞳を少し伏せ、座っていた。魂を持たない、人に成り損なった人形。白磁の肌の、動きそうでしかし動けない、壊れた人間が、そこにあった。
「どう?とても綺麗でしょう」
 零の細く長い指が、蒼弥の姿をとった人形の、ほの白い頬を愛おしそうに愛撫するのを見て、緋彦は背筋に痛い程冷たい恐怖が這い上がるのを感じた。
「・・・悪趣味だ」
「どうして?こんなに綺麗に完璧につくれたのに」
 心底満足そうに、零は蒼弥の肌に手を重ねて、指でその輪郭をなぞる。
「狂ってる」
「狂ってる、だって?それは、緋彦さんも同じだよ」
 心底愉快そうに零は言い放つ。
「違う」
 頭を振る緋彦に、まるで出来の悪い生徒に懇切丁寧に説明する教師のように、零は流れるような口調で語りかけた。
「いいや、同じ。緋彦さん、あなたも思った事があるはずだ。兄さんの、蒼弥の中身を見てみたい。構造を知りたい。あの綺麗な綺麗な身体の中に何が入っているのか、どうなっているのか、確かめてみたい。ねえ、一度でも、それを思った事が無いと言えるかい?」
 中身を、見たい。それを聞いた途端、ぐしゃぐしゃに糸の絡まった頭の中が、真っ白になった。

――俺が?俺が、蒼弥の中身を見たいと?それでは、その言い方では、蒼弥が人間で無いはようではないか。そこにある人形のように。そうだ、あれが動くというなら俺はもう一度その中身を今度こそ蒼弥の中身を・・・違う。違う、違う。あの蒼弥は生きていた。目の前のあれは蒼弥ではない。蒼弥の死体の、その更にもう一歩虚ろになったものだ。これを、生きていないこれを動くと思ってしまったらそれを生きた蒼弥と重ねてしまったら俺は確実に壊れてしまう。そうだおれはそんなことおもったおぼえはない・・・・・
 熱を帯びた頭で、必死に自分に言い聞かせようとするが、しかし、いくら言い聞かせようとしても、零の言葉が悪魔のように、ぐらぐらと揺れる脳に響いて侵食して、それは叶わない。
「頭が、狂いそうだ」
「もともとじゃない?ほら、ちゃんと思い出してよ。中身が見たかったろう?蒼弥の、中身を。否定は有り得ないはずだよ。
 僕はあの日、
 あなたの眼の中に確かに、
 僕と同じその感情が浮かぶのを見たもの」
 その一言を止めに、頭の奥の方から、体中が砂のように崩れていくような感覚が緋彦を襲った。すう、と血の気が引いていく。もう何も浮かばない頭の中に、ぐるぐると渦を巻いて、あの日が蘇る。
――そうだ。思った。死体を見た時。蒼弥の中身が見たい、綺麗に、開いて・・・。
 くつくつと、零の嗤う声が部屋に響く。
「そう言う事だよ。蒼弥は、僕が殺した、あなたが殺した。そう言う事だよ。同罪だ」
 足元がおぼつかない。しかし、背中を壁に押し付けるように後ずさっても、まだ、椅子の上の人形から目が離せない。今にも、笑いかけてきそうな、蒼弥の美しい似姿。
 違う、あれは蒼弥ではない。そう思う力も、もう残ってはいない。
「・・・でもねぇ、やっぱり、僕は中身を見るだけじゃ、ダメなんだよ。言ったろう?蒼弥が死んだ、殺したは正しくない、って」
 人形の、蒼弥の、その生前のそれと全く同じ、濡れたように黒く艶やかな髪を、指先に絡め、そっとかき上げ、また遊びながら、零が朗らかに話し続ける。
「あのまま、蒼弥が朽ち果てるなんて、恐ろしいだろう?こんなに美しいのに。ずっと僕の手元に置いておきたい。この綺麗な髪も、肌も、目も、手も足も、声も、爪の先まで、全部。今の僕にはそれができるんだ」
 星は、僕の手元にあるからね。指に絡めた蒼弥の髪に、軽くその薄い唇を寄せて零が囁く。しかし、緋彦の頭には、もう零の言葉は殆ど届かない。思考は停止したも同然で、ただただ、目の前の人形を凝視するしか術が無かった。

 自身の崩壊への恐怖はもうとっくに何処かへ消えてしまった。今は、ひたすら、理解の及ばない零の狂気への畏れとも恐怖とも憧れとも、蒼弥の美しさへのそれともつかない震えが支配していた。
「・・・ねえ、緋彦さん、今日は兄さんが帰って来るんだよ」
 零が、ごく静かな声で告げる。
「折角、最後に兄さんを見せてあげたのに・・・何をそんなに怖がっているんだい?」
 もう、零の発する言葉の意味を追う事すら、出来なくなっていた。
 ぎらりと光る刀身にも、気付けない。
「僕の最後の親切も、何だか無駄になっちゃったみたいだね」