: 零 :

 離れた居間にある柱時計が二度鳴った。同時に、ふと背後に人の気配を感じて、零はページを繰る指を止めた。首を曲げて振り返ってみると、視線の先には蒼弥が居た。いつの間に入ってきていたのか、閉めた襖に背を預けて立っている。
「兄さん?どうしたの、そんな所に突っ立って」
 本を閉じ、椅子ごと蒼弥の方を向いて、零は声をかけた。しかし、蒼弥の返事は無い。無視を決め込んでいるようではなく、ただぼんやりと、零の存在に気が付いていないような様子で立っている。蒼弥の目は何処か遥か遠くの地に焦点を合わせ、魂ごとその地へ飛んでいるといった風で、零がもう一度、先より強く声をかけてようやく、視線が零の上で焦点を結んだ。
「……ああ、零」
「ああ、じゃないよ。ぼうっとしちゃってさ」
 ぼんやりと身の入らない調子で反応した蒼弥に対して、零は少し口を尖らせて抗議する。
「全く…兄さん、最近多いよね、そう云う事」
「そうか…ごめん」
 申し訳なさそうに云った蒼弥に、零は小さく肩をすくめてみせて、笑った。
「まあ、そこまで気にしてないけど。で、何か用だった?」
「ああ、そう云えば…零、ちょっと」
「何?」
 こっちへ来いと云うように、蒼弥の手がひらひらと舞う。藍の薄物の袖から覗く手首は細い。日のあまり当らない、陰になった部屋の入り口で、その陰と着物の色も手伝ってか、蒼弥の肌は、零の目に、内側からほの青い燐光を放つ白磁のように見えた。
――ああ、綺麗だな。
 声に出さず呟いて、零は椅子を立ち、未だぼんやりとしている蒼弥の方へ歩み寄る。
「どうしたんだよ、何かあった?」
「いや、別に。特に何も…ああ、そうだ。零、星を、捕りに行かないか」
 薄い口唇に微笑を浮かべてそう云った蒼弥に対し、零は、訳がわからないと怪訝な顔をして、「何処に」と些か的外れな質問をした。
「来れば、わかる。さ、行くぞ」
 蒼弥は零の質問に曖昧に答えて、さっと襖を開け、先に廊下に出て、こいこいと小さく手招きをしながら零の来るのを待っている。こうされては、零も蒼弥についていくより他に無い。蒼弥について木の影が落ちる廊下を渡り、玄関に出る。蒼弥が草履を履いて戸の外に出るので、零も慌てて靴を履いて庭へ出た。
 先を行く蒼弥の、華奢な背を追いながら、零はその姿、挙動から目を離す事ができなかった。弟である零の目にも、蒼弥は美しく見えた。