: 蒼 :

 …兄の話をしよう。兄は、昔から不思議な魅力を持っていた。生来色素の薄かったという肌は肌理細かく滑らかで、さらさらと風に流れる髪は見事な濡れ羽色、睫が陰を落とす瞳は黒曜石、加えてほそりと華奢な体つき…と、まるで少女に使うような形容が、不自然なくぴたりと当て嵌まる容姿だったものだから、遠目に見て少女と間違う奴も、多かった。
 初めて兄を見た人間は、その人形のような見た目の通りに、彼の感情の発露が薄いのではないかと想像したらしいが、それは間違いだ。兄はよく笑ったし、機嫌も損ね、稀にではあるけれど激昂も、涙を流すことも、人並みにした。
 しかし、外に出て走り回ると云った事はあまりせず、外は好きだったがどちらかと云えば、外に出るのは散歩程度で、それ以外は家の中で本を読んで過ごしているようなたちだった。だから、傍目には、彼はとても静かな、自動人形の類に見えたに違いない。
 見た目に関して、その感想は間違いでは無かった。蒼弥…兄が、静かで、ともすれば無機質とさえ取れる美しさを持っていた事は事実だ。豪華な着物で着飾って動かずに居れば、展示品の精緻な人形であると表現されても、恐ろしい程にしっくりと来てしまう。眠っている時など、目を閉じ横たわる兄は呼吸をしていないのではと思わせた。それ程に、計算し尽くされたかのように、兄は美しかった。
 その、容易に触れればその部分から砕けるか崩れるか、若しくは触れた指先から自分が凍り付いてしまいそうな、脆く危うげな美しさに、多くの者、大抵は家に訪れた客人が心奪われて来ただろうことは、想像に難くない。
 何せ、まだ子供だった僕にさえ、そうさせる兄の雰囲気が分かっていたのだから。

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 これまで幾人の客人が、蒼弥に目を奪われて行っただろうかと、零はそれを考え、喉で小さく笑った。
「何だ、思い出し笑い?何か楽しい事でもあったのか?」
 前触れ無く笑いを漏らした零に、蒼弥は振り返ってそう訊ねた。
「うん、ちょっとね。それより兄さん、星って、何の事?」
 その問いに、蒼弥は意味ありげに微笑むだけで答えなかった。代わりに、急かすようにその歩調を少し速めただけだった。
 暫く、二人は家の敷地内を歩く。この屋敷の敷地は、住んでいる零自身も呆れる程に広い。踏み入れた事のない所もまだあり、零が普段は足を向けない方へ蒼弥は進むので、さくさくと下草を踏みしめながら、零は歩き続ける蒼弥の後を追った。
――この調子だと、蔵の奥の雑木林に向かうのかな。
 零は雑木林の方へは滅多に足を運ばない。蒼弥が散歩を好むのとは反対に、零は家に居る時にはあまり外へは出なかった。蒼弥は歩き慣れているのか、迷いの無い足取りで雑木林に足を踏み入れる。
「こっちの方まで来るのは久し振りだな。兄さん、こんな所までいつもひとりで来るの?」
 薄暗いものの、所々木漏れ日の注ぐ木々の間をすり抜けながら、零は蒼弥に声をかけた。その質問に、蒼弥は少し窮したように考えてから、「いいや」と一言、苦笑とも自嘲ともつかない、曖昧な笑みと共に答えた。
「ふうん…と云うか、こんな所、うちにあったんだね」
「あったんだよ。でも、今は殆ど、誰も来ないんじゃないか」
 空を仰いで、重なり合う葉を透かして降る木漏れ日に眩しそうに目を細め、蒼弥は呟いた。
「それじゃあ、今の所、ここは僕と兄さんの秘密の場所って事だね」
 つい、と蒼弥の前に身を躍らせて、零が笑いかけると、蒼弥もそれにつられて顔を綻ばせた。
「そうだな。だけど誰に秘密にするって云うんだよ」
「それは…ああ、緋彦さんとか」
 零が不機嫌そうに蒼弥の級友の名を出すと、蒼弥は呆れたように笑った。
「緋彦?何であいつが。良い奴じゃないか」
「解ってないなぁ」
 そう云って、零は視線を横に流した。それとほぼ同時に、頭上で葉の擦れる音がして、そのまま視線を頭上に向ける。頭上の木の枝はゆらゆらと揺れていて、目を上げた瞬間には茶色く長い何かの尻尾が視界をよぎっていた。
「何か、見えたのか?」
「ん?栗鼠」
 零は頭上の木を指さす。その枝の根本に、小さな栗鼠が器用に立っている。
「本当だ」
 零に倣うように頭上を見上げ、静かに息をつく蒼弥を見て、零は気付かれない程度微かに溜息をつき、声に出さずに先と同じ事を脳裏に呟いた。
――本当に、解ってないんだね、兄さんは。

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 兄は解っていなかっただろう。級友が、自分に手を伸ばしたがっている事、級友が兄の、自分でも気付いていない、その綺麗な白さに魅せられたひとりだったという事を。そして僕が、彼に兄を渡したくなかったという事、本当は、誰にも触らせたくなんてない、その皮膚も髪も眼球も手も脚も、声までも、何もかも全部手元に留めて置きたいと考えていた事も、また。
 彼の手が兄に触れる度に、僕の中で鈍色の糸がごちゃごちゃと絡まって行ったのを、兄は知らない。いっそ、壊してしまえればどれほど楽か、と思う程に、その絡まった糸の生む感情は強いものだった。けれど、これは兄の近くに居れば誰だって持ち得る感情だと思う。決して自分のものにはならずに誰かの手に渡ってしまうならば、その前に自分が、この手で、と。
 兄、蒼弥を前にして、彼に惹かれる人は僕と同じような感情を持ち、その無機質な美しさの中身を、彼の感情の流れ出るその出所を、心の源を見たいと願う。廃墟を訪ね、かつてのその場所を想うために、その中にヒトの痕跡を探し出し、次第にその足跡を追う事自体に恍惚とするような、一種の焦燥に似た感情を有するようになる。
 ずっと手元に置いておきたい、誰にも渡したくない、できるならばその体を開いて中身を見てみたい…そう、とても、危ない考えを持つようになる。でも、兄はそれらの感情が自分に向けられている事を意識していなかった。
 そして、それに気付かなかったからこそ、蒼弥は僕の「兄さん」だった。