: 星 :

――あれ、ここ、何処だろう。
 蒼弥について雑木林の中を歩いているうちに、零は自分が全く足を踏み入れた事無いところまで来ている事に気が付いた。庭から足を踏み入れた時と変わらず、周囲の木々は木漏れ日を投げかけているが、その場の空気は既に、零が知り馴染んでいる自宅の空気とは全く違っていた。それに、ここ暫く、蒼弥は黙々と歩くばかりであまり言葉を発していない。微かな違和感と不安から、零は口を開く。
「ねえ、兄さん、」
「――ここの、この先」
 声をかけた零のその言葉に重なるように、蒼弥が静かに呟いて、見通しの悪い木立の先を、細い指ですいと指差した。
「この奥に、あるんだ」
 一言、端的な言葉を発して、指を下ろし、今までとはどこか違う、熱に浮かされたような調子で、蒼弥は先ほど自分で指差した方向へ向かってふらりと足を運ぶ。
 進んだ先には、青々とした葉を茂らせた一本の巨木があった。その周囲は、背の低い草のみが地面を円形に覆い、まるで広場のようだった。
 そこに足を踏み入れるなり、蒼弥は背後の木に背中を預け、目を閉じてずるずると座り込んでしまった。
「兄さんっ、だ…大丈夫?」
 零は慌てて蒼弥に走り寄り、広場に足を踏み入れた。前に回って呼びかけてみても、蒼弥の返事は無い。
――どうしよう、周りに、人は居ないし……
 混乱した頭で周りを見渡していた零は、ふと動きを止めた。何かが、頭の中にひっかかる。
――ここへは、何をしに来たんだっけ…?
 強い風がひとつ吹き付けて、広場の下草を波立たせ、巨木の葉をごうと唸らせた。
「そうだ、星を、捕りに来たんだ……」
 ぼんやりと呟いて、零は背後にそびえる巨木に体の正面を向けて、それを見上げる。その途端、零は頭の中が、清流が流れ込んだように冴え渡ったのを感じた。
 奇妙にすっきりとした頭で蒼弥に向き直った零は、屈んで、蒼弥の髪をするりと撫で、口の端で微笑んだ。
「…少し、ここで休んで待っててね。すぐに、迎えに来るから」
 零は立ち上がり、広場の中心、巨木の方へと歩を進めた。

「――やあ、あなたも、星を探しに?」
 不意に、風が葉を渡る音しかしなかった広場に、声が飛び込んできた。零が声の聞こえた方を見ると、すぐ隣に、背の高い男が立っていた。その男は黒い帽子を被り、黒いコートを羽織って、まるで夜を切り抜いて、空間に貼り付けたようだった。
「……ええ、逃げてしまわない内に」
 突然現れたその男に、零は戸惑うでもなく、微笑んで答えた。男も、何でもない風に木を見上げて頷く。
「そうですねぇ…放っておいては、何処へ行ってしまうか分かりませんからね。あなたのは、どれです?」
「あれです、一番下の枝の辺りの」
 巨木の周りでは、いくつもの光の球が様々な色を放ちながら漂っていた。零は、その内のひとつ、マグネシウムを焚いたように強くりんりんと光る、淡い青のものを指差した。
「おや、これはまた、美しい…羨ましいですね」
「そうでしょう。ですが、あなたも既に、綺麗な星をお持ちじゃないですか」
 零は、男が提げている小振りの鳥かご示した。その中では、深い青の光球が、冴え冴えと目の覚めるような光を零していた。
「これですか?…ふふ、ありがとうございます。そうですね、いつか、これはあなたの世話になるでしょう」
「いつか?」
「ええ、いつか…あなたの時間が、今の姿に追いつく頃に」
 男にそう云われて、零は初めて、自分の目線が、隣にいる長身の男のそれに近くなっている事に気付いた。そして、自分がいつの間にか、右手に黒い鉄製の洋燈を提げている事にも。視線を上げると男と目が合った。男は帽子の下で微かに笑い、思い出したように空を見上げた。
「おや、もうこんな時間ですか。そろそろ私は行かなくては。では、また」
 帽子をほんの僅か上げて会釈をして、男は広場と雑木林の境界線までゆったりと歩いていき、そこで、消えた。
「――楽しみに、待っていますよ」
 もう見えなくなった男の背に向かってそう呟いた零は、巨木と、そこにふわりと漂う光球を見上げた。ふと、脳裏に、幼い頃に父から聞かされた言葉が蘇る。
――星が無くては、いけない。
 零は後ろを振り返る。自分が下草につけた足跡の元には、もう、誰もいない。
 目を閉じると、零ははっきりと、以前に父から云われた言葉を思い出すことができた。
『星が無くては、いけない。零、覚えておけ、蒼弥が欲しいなら』
 静かに目を開けると、目の前に明るい光球が浮かんでいた。零は自分の目の前に漂う、淡青色の光球に、洋燈を持っていない片手を差し伸べ、薄く微笑んだ。
「……おいで、蒼弥」