: 傷 :

 ばさり、と何かが落ちる音がした。その音で零は目を開けた。読みさしの本が、机から落ちて、床の上で開いている。
――今のは、夢、だった…?
 窓の外は、今しがたの記憶が事実であるにしては、明るすぎた。
 零はぼんやりとした頭を軽く振りながら、床に落ちた本を拾う。同時に居間の柱時計が、低くふたつ、鳴った。
――ああ、やっぱり、ね。
 零は小さく息をついて、椅子に座りなおした。そして向き直った机の上に、鉄製の黒い洋燈を見つける。
「これ、は……」
 手を伸ばして、零はそれに触れようとした。しかし、その指が洋燈に触れようと云う瞬間、たん、と襖が勢い良く開き、息を切らせた人物が部屋に飛び込んできた。
「……何か、用ですか?緋彦さん」
 伸ばしかけた手を引き、零は不機嫌そうに応対したが、緋彦と呼ばれた少年はその不機嫌に気付かない程急いでいるらしく、息も整えないままに言葉を連ねた。
「零、蒼弥が…蒼弥が、死んだ」
 緋彦の顔色は蒼白だった。パニックに陥るぎりぎりの所で声を出しているような緋彦の言葉に、しかし零は一瞬言葉に詰まっただけで、ちらりと机の上の洋燈に目をやり、ひとつ深く息をつくと、淡々と答えた。
「…そうですか。知らせてくれて、ありがとうございます」

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 あの後、まだ混乱しているらしい緋彦さんに、兄の所まで案内してもらった。兄は高校の近くの塚森の中で、大きな木の幹に背中を預けて座る形で、目を閉じ、冷たくなっていた。
 呼びつけられた医者によって横たえられた兄の死体を見ても、僕は別段、悲しいとは思わなかった。むしろ、血の色が抜けてより白く、塚森の落とす陰から浮き上がりそうな、それこそ完璧に人形になってしまった兄を見て、美しいな、と、感慨に耽った程だ。今でも、鮮明に覚えている。まるで聖域に足を踏み入れでもしたかのような気さえして、焦りにも似ていた感覚で、腕にそわそわと鳥肌が立った事も。
 兄の死体には多くの傷があった。服はしっかりと着ていたものの、その下には新しい縫い傷がいくつもあった。しかし、静かにそこに横たわる兄を前に、直接の死因は分からない、と医者は云った。兄の全身についていた傷は、呼吸が止まった後につけられたものだそうで、直接の死因となると、ただ魂が抜け出てしまったかのようだ、と。
 ……それは案外、当たりかも知れない。
 兄の全身の傷は、念願の彼の中身を見た誰かが、丁寧に縫い合わせた傷口だ。その誰かが誰かは分からないし、兄を殺した誰かと同一かどうかすら分からない。
 医者によると、左胸の傷の下には、人体にあるべき心臓が無かったのだと云う。誰かが持ち出してしまったか…元から、無かったかのように。抜け出した魂の行方は、誰も知らない。
 そう云えば、あの時の緋彦さんの眼にも、あの感情が光っていた…本人が、気付いていたかどうかは、分からない。
 結局の所、兄は誰に殺されていてもおかしくは無かったのだった。