: 迷 :

 緋彦が通された部屋の中は、暗幕のような厚手の、暗い赤色の布が壁に張り巡らされていた。同じ布が天井から幾重にも吊られていて、カーテンのように壁の両脇に括られていた。壁際には、表に出されていない人形達や、そのパーツ、滑らかな腕や脚、細やかな指先の手に、薄桃色の唇を持った頭部、様々な色彩のガラス製の眼球などが並べられていた。
 その部屋は、これから奇妙な劇の始まる舞台裏のようで、不気味な静けさが零と緋彦を奥へ奥へと迎えた。
 壁際に佇んでいる人形の、ガラスの眼球と目があってしまい、緋彦はとっさに目を逸らした。
「緋彦さん、椅子。用意したから、座って」
「あ、ああ…ありがとう」
 こうなったらさっさと用件を済ませてもらおうと、緋彦は素直に椅子にかけた。
 丸いテーブルの向かい側に零が座っている。その隣に、もう一脚、大きな黒い布の掛けられた椅子がある。
 テーブルの上の、青白い光の灯った洋燈の向こうで、肘をついた零が密かに笑ったのが、緋彦には判った。
「なあ、零、俺に――」
「見せたいものの前に、話があるんだけど…良いかな?」
 緋彦の言葉を遮って、零が静かに切り出した。良いかな、と訊ねたその瞳には、有無を云わせない光があった。部屋の隅の暗がりの淀みが、濃くなったような気がした。それに気圧されるように、緋彦は了承の意を伝える。
「ありがとう。それで、そうだなぁ…ねえ、緋彦さんは、何処にあると思う?」
 急に突きつけられた質問の意図を、緋彦は掴むことができなかった。
「何、が…?」
「兄さんの、心臓。知ってるでしょう?あの日、兄さんの体の中には心臓が無かったんだよ」
 零の言葉で、緋彦の脳裏に数年前の夏の景色が蘇る。白い日差し、湿った木陰、幹に寄りかかった蒼弥の、着物の襟から僅かに見えた、胸の傷。それらは緋彦に強烈な目眩を起こさせたが、それに耐えて緋彦は口を開く。
「…何で、俺がそんな事を知ってるって云うんだ」
「知ってる訳、ない?」
「当たり前だ」
「…そうかなぁ、まあ、そうかも知れないよね」
「どういう、意味だよ」
「別に。緋彦さんなら、解っててもおかしくないと思っただけだよ。でも、そっか、解らないんだね」
 そう嘯く零は、どこか楽しそうだ。話題が話題なだけに、その態度は緋彦を苛立たせる。その苛立ちが表に出たのか、零が肩をすくめて見せた。
「嫌だなぁ、そんなに怖い顔しないでよ。それよりも、緋彦さん、知ってる?魂は心臓のある所に帰ってくるんだってさ。心臓を持ってれば、魂も戻ってくるかも知れないよね」
 零のこの言葉は、朧気ではあるものの、緋彦に口を開かせるに足る疑問をもたげさせた。
「零、まさか、お前…お前が、盗ったのか」
「僕が?…さあ、どうだろうね」
「答えろ、零。お前が、蒼弥を、殺したのか?」
「ああ、それは、そうかも知れない」
 事も無げに云ってのけた零に、緋彦は思わず拳に力を入れ、椅子から腰を浮かせたが、それをそのまま零に叩きつける事は、零が続けた言葉によって叶わなかった。
「でも、僕だけが兄さんを殺した訳じゃないと思うなあ。大体が、心臓を盗んだ奴と兄さんを殺した奴は別人かも知れないじゃないか。そもそも、兄さんに本当に心臓があったかなんて分からないよね。それに、僕が兄さんを殺したというのなら、緋彦さんも殺したんだよ」
 つらつらと紡ぎ出された例の言葉を、緋彦は正確に追うことができなかった。ただ、最後の一言が耳に残る。
「何の、話だよ…俺が、殺した?蒼弥を?」
「そうだよ。緋彦さんは、自分が兄さんを殺したと思ってないの?」
 そう考えるのが当然だとでも云うように、零は首を傾げた。
「思う訳、無いだろう…大体、どうして俺が蒼弥を殺さなければいけない。理由なんて、無いだろう」
 零の言葉がにわかには信じられず、緋彦は心なしかうわずる声で言葉を紡いだが、零は口の端に笑みを浮かべて、なおも続ける。
「本当?本当に、そう?自分には、兄さんを殺す動機が無いと、言い切れるの、緋彦さん」
 零の声は、悪魔の言葉のように緋彦の脳に染み込んでいく。言い切れる、と、動機など無いと云わなければ、と警鐘を鳴らす意識に反して、しかし、緋彦は何も答える事ができなかった。
「…それで、見せたいものって云うのはね」
 呆然とする緋彦を後目に、零は何事もなかったかのように唐突に話題を変えた。
 緋彦の視線がゆるりと自分の方へ移ったのを確認してから、零は自分の隣にある椅子に掛けられている黒いびろうどの布を取り払った。まるで、手品師がその技を見せつける時のような仕草で。
「見せたいものって云うのはね、緋彦さん、これなんだよ」