: 崩 :

 零が取り払った布の下には、一体の人形が目を閉じて座っていた。その人形の顔を認識した瞬間、緋彦は言葉を失った。
 そこに座っていたのは、蒼弥だった。生前にもよく着ていた濃紺の薄物を身につけ、長い睫の陰を目元に落とし、白い手を行儀良く腿の上で揃えて、そこに蒼弥が座っていた。魂を持たないが故に、動きそうなのに動けない、死体でも生きている人間でもないものが、蒼弥の形をとって、そこにあった。
「ねえ、とても綺麗にできてるでしょう?」
 零の長い指が、蒼弥の姿をした人形の白い頬を愛しげに撫でるのを見て、緋彦は云い知れぬ嫌悪を感じた。
「…悪趣味だ、零」
「どうして?こんなに完璧に作れたのに」
 至極満足そうに、零は人形の肌に手を重ね、その輪郭をなぞり、笑う。その笑みを眼前に、緋彦の背筋には痛い程冷たい恐怖が走った。
「狂ってる…」
「失礼だなぁ…狂ってる、だって?それなら緋彦さんだって同じでしょう」
「俺は、お前とは違う。そんな、死んだ人間を人形にするような真似は、俺はしない」
 渇いて重くなった口を開いて云う緋彦に、しかし零は心底愉快そうに笑った。
「嘘だね、あなただって、まだ自分の中に兄さんを住まわせているくせに。同じことだよ、緋彦さん。僕はただそれを形にできただけだ」
 蒼弥の人形の方に視線を向けていた零は、そう云った後に、その視線を緋彦に真っ直ぐ向けた。その眼に射られて、緋彦は言葉を発することができない。零は満足そうに微笑んで、言葉を続けた。
「それに…緋彦さん、あなたも思った事があるでしょう。兄さんの、蒼弥の中身を見てみたいと思った事が。あの整った体の構造を知りたい。あの綺麗な綺麗なからだの中には何が入っているのか、確かめてみたい…ねえ、一度でも、考えた事が無いと云える?」
 中身が見たい、と、その短い言葉で、緋彦は自分の意識の何処か、くらいものにひびが入る音を聞いた。
「俺が…蒼弥の、中身が見てみたいと、そう思って、殺した…俺が?」
――俺が、殺した?中身を、開いて…何のために?そうだ、あの底知れない正体を、その源を見るために、俺は……違う、蒼弥は人間だった。人形ではない、あれは蒼弥ではない。だが、あれが動くと云うのなら、俺は、今度こそ……今度こそ、なんだ?
 とっさに緋彦は頭を押さえた。これ以上恐ろしい事を考えないよう、その続きを押し出すように左右に振るが、それも空しい。
「…頭が、おかしくなりそうだ」
「もともとじゃない?ねえ、ほら、ちゃんと思い出してよ、緋彦さん」
 緋彦の手に、蒼弥の死の感触は無かった。しかし、その脳裏では、零の言葉を合図に、まるで自分が行ったかのように手順や光景が再生され始めた。蒼弥の内側がつまびらかにされる様を、滑らかな肌に傷を作ってゆくその高揚を、手ではなく脳が知っている。その事実に、緋彦は愕然とした。じとりと嫌な汗が、緋彦の背に滲む。自分の鼓動がいやに頭に響く。
「何で、俺は、知ってるんだ?」
「…だから、云ったじゃない。僕が兄さんを殺したと云うのなら、緋彦さん、あなたも殺したんだ。実際に手を下さなくたって、僕らは兄さんを殺したんだよ」
 零の形の良い唇が、弧を描いて歪んだ。
「ねえ緋彦さん、あなたが見た兄さんの中身は綺麗だった?…今更否定なんて、しないよね。僕はあの日、緋彦さんの目の中に、僕と同じ感情があるのを確かに見たんだから」
 その一言を止めに、緋彦は自分の体が砂になり頭の奥から崩れていくような感覚に襲われた。頭から血の気が引いていく。口の中は完全に乾いて、言葉を発することができない。それなのに、緋彦は零の隣の人形、今にも動き出しそうな蒼弥の美しい似姿から目を逸らす事ができなかった。緊張していた筋肉が力を失っていく。
 顔を青くして力無く椅子に座る緋彦を横目に、零は今までとは調子を変えて、柔らかい声で話し出す。
「でも、結局、僕は中身を見るだけじゃ物足りなかった」
 傍らにある蒼弥の似姿の、濡れたように黒く艶やかな髪を指先で弄びながら、零は話し続ける。
「僕はずっと、蒼弥が欲しかったんだ。この綺麗な髪も、肌も、手も足も、声も、頭から爪の先まで、全部手元に置いて、誰にも渡したくない…今の僕には、それができる。緋彦さん、今日、蒼弥が戻ってくるよ。だいぶ時間がかかってしまったけれど」
 緩く指に絡めた蒼弥の髪に軽く唇を寄せて、零は囁くように云った。しかし、緋彦の頭にはその言葉は殆ど届かない。緋彦の思考は既に停止したも同然で、理解をしようとする機能が失われたようにぼんやりとしている。
「でも、僕は蒼弥を手に入れる事ができるけど…困るんだよね、緋彦さん、あなたがそんな風だと」
 ため息をついてそう云った零の、右手に光るナイフも、緋彦は見ている事しかできなかった。

 零は席を立ち、テーブルの周りをゆるゆると巡り始めた。光を反射して輝くナイフの軌跡を、緋彦は目で追うともなく追っている。
「そうだな、話を少し戻そうか…ねえ、魂が心臓の下にあると云うのなら、魂が先にあれば、そこが心臓だと云う事にならないかな。魂に、そこが心臓だと教えてあげたら、心臓そのものが無くても動くかも知れないよね…さっきも云ったでしょう?兄さんに心臓があったかどうかなんて、分からないんだよ、緋彦さん。だとしたら、兄さんの中身を見た人は、がっかりしただろうね。今度こそ…なんて、思ってるかもね」
 零が右手を振ると、ナイフは舞うようにひらひらと光を跳ね返した。
「困るんだよ、緋彦さん。折角僕は、蒼弥を見せてあげたのに…緋彦さんなら、自分の中の兄さんとこの蒼弥を混同しないと思ったからね。でも、あなたは、これを兄さんじゃないと解ってても、まだそんな目をしてる……だから、すみませんね」
 ひらり、と零の手元でナイフが一層強い光を放ち、翻る。

「これで、さようなら」