: 春雪 :

春には似つかわしくない、雪が降っている。
湖面に吸い込まれる白い破片を見ながら、ひとつ、石を鏡のような水面に投げ入れた。
どぷん、と粘っこい音を立てて、鏡が歪んだ。

「姉さん、この雪は、何処から降ってくるのだろう」
「これはねぇ、海のずぅっと上のほうから降って来るのよ」
「へえ、面白いね」
「でしょう?これは全部、小さな生物の屍骸」
「綺麗な屍骸。でも、おかしいね。ここは海じゃあないのに」
「いいえ、いいえ。ここは海よ。私たちは魚。ほら、ひらひら、って」

姉さんの手が宙を踊る。
それと一緒に鮮やかな色の袂も、ゆらりと泳いだ。

「あはは、へんなの」
「そうかしら。でもね、私は魚になるのよ」
「へえ、妙にきっぱり云うんだね」
「だって、私は決めたのだもの」

姉さんが口の端だけで嗤った。
それを歓ぶように、鏡の表面がばしゃばしゃと波立つ。僕は石を投げ入れてはいない。
波紋が打ち寄せ、足元の水に漣を立てた。

「ヒトより、魚が好いんだ?」
「ええ、悪いけど、ね」
「ねえ、まだ戻れるよ。あと一刻はある」

僕は腰を上げて、ふざけて腕時計の示す時刻を読み上げた。
姉さんは嗤っていた。

「戻らないわよ」
「そう。じゃあ、姉さん、おめでとう。その着物、きっと良い鱗になるよ」
「ふふ、ありがと。一番良いお着物だものねぇ」
「無駄にならなくて良かったじゃない。じゃあ、さよなら」
「ええ、さよなら」

どぷん、と粘っこい音を辺りの静寂に響き渡らせて、鏡は姉さんを飲み込んで歪んだ。
姉さんが鏡に飲み込まれる瞬間、鮮やかな紅い着物の柄が、美しい鱗に見えた。
そして鏡は元通り。その後、いくら覗き込んでも底は見えなかった。

今でもたまに、鏡は歪んで、僕に少し中を見せる。
何度か、その歪みの中に、紅く鮮やかに美しい鱗がきらめくのを目にした。
ああ、今日も日に似合わぬ雪が降っている。

 :終: