: スプリング・イン・ザ・フリーザー :

 僕の部屋にはひとつ、大きなフリーザーがある。狭い狭い僕の部屋の中には、低く唸るフリーザーがある。電気代もそれなりにかかる。ぶうん、ぶううん。フリーザーは重く振動して空気を伝う。この低い音は、はるか昔に聞いた血流の音にも似ているかも知れない。すると、この白い凍て付いたフリーザーは胎内になるのだろうか。ごうごうと中に入れば音の響く胎内はしかし、僕の部屋ではとても冷たい。温まることなく、暖めることもなく、ものを孕む僕の部屋のフリーザー。

 腐ったようにどろどろした光を注ぐ、殺気に満ちた太陽の下、道端の少女からトマトを貰った。赤く赤く、幼稚園児が描いた病的に赤い太陽を、手で捏ね回して丸めたような色をしていた。皮が薄く中身が張り詰めていて、少しでも力を入れればたちまち破けて中身が垂れ流れそうだった。爛熟したそれを幼い手に乗せて、少女は微笑んだ。それはまるで、どうどうと血を滴らせている生贄の心臓を持つ女神のようだった。薄皮一枚の心臓はその皮が破られようとする時を待っている。微笑む幼い女神の手から僕が受け取った贈り物は、歯を立てれば滴り地面に吸い込まれ舌に触れればどこまでも甘かった。僕が贈り物を平らげたのを見ると、少女はやはり笑ってもうひとつのトマトを差し出した。さっきと同じ。僕はそれを持ち帰って冷蔵庫に入れた。冷蔵庫の中にはビールが数本、マヨネーズ、チーズ、卵、牛乳、四分の一の西瓜、近所のコンビニの惣菜。冷凍庫にはアイス。フリーザー中にそれらは介入させない。

 僕の部屋にテレビは無い。テレビは死んだ。僕が殺した。中に入っている人々が余りにも五月蝿くて汚かったから、僕がテレビを殺した。それによって中の人々も死んだ。とても静かになった。従って、僕の部屋にテレビは無い。ラジオも無い。調子に乗ったDJが煩いから、ラジオも殺した。電話も無い。電話は自殺だった。電話線が神経のように絡まって焼ききれた。携帯電話は一応持っている。登録されているのは一人でしかも彼も僕と似たような性質であるからそうそう鳴らない。従って、僕の部屋で音を立てるのは、例の低く唸るフリーザーだけ。冷蔵庫は至って静かだ。ごく稀にフリーザーより高い振動で存在を誇示するだけ。そうしてフリーザーの音はいよいよ部屋の中に充満し、息をするのがすこし苦しくなる。僕の部屋は胎内の延長になっている。

 そして、そう。蠕動し血流を響かせる胎内には当然、中身があって然るべきだ。フリーザーの中身。胎内の眠るこども。僕はそれを動かす鍵を持っている。首から皮ひもで提げた鍵。底に四角い穴の開いた、ぜんまいを巻く鍵。柱時計の鍵穴に差し込んで回せばきりきりと音を立てて振動が手に伝わってくる、あの鍵。これはフリーザーの中身を動かすための鍵。僕はそれを持っている。この手の中に。

 けれども僕はそれを使わない。手に入れた時からずっと、僕は鍵を持ったまま、最初の一度から先、一度たりとも挿し込んでいない。最初に少しだけ動いて、フリーザーの中に入ってからと言うもの、ぜんまいを巻かない彼女の時は凍って止まったままだ。動かない氷付けの時間。彼女はフリーザーの中から出られない。出たがらない。

 彼女を拾ったのは、確か去年の春だ。これから暑くなろうと太陽が少しの殺気をほのめかした時期、彼女は近所の粗大ゴミ捨て場に転がっていた。彼女のあまりの美しさに、僕は半ば無意識に彼女に手を伸ばしていた。何て美しい。こんなに無造作に転がされていて、彼女は僕の眼に輝いて見える。この汚い腐臭を放つごみため場にあって、彼女はこんなにも美しい。そして、触れた。彼女の膚はするりと僕の指を受け流した。恍惚に浸った僕はしかし、瞬時に思ってしまった。こんな彼女もいつかは老いて崩れ行くのだろうか、と。それはいけない。それはあってはならない。そんな恐ろしいことがあってはならない。だから僕は、粗大ごみ置き場にあったテープでぐるぐる巻きのフリーザーに目をつけた。大分薄汚れていたけれど、洗えば大丈夫。フリーザーに近づくと、奇妙なにおいがした。生物の痕跡の匂い。肉の腐れた臭い。テープを取ってフリーザーを開けると、中にはどろどろになった何か動物の名残が入っていた。骨が白く突き出て見えた記憶。僕はその臭気に吐きそうになったけれど、他ならぬ彼女のため、と思って、フリーザーの扉を閉めて彼女とともに家に持ち帰った。途中でフリーザーの中身が零れたけれども、僕は気にしなかった。そしてそれ以来彼女は殺菌された白いフリーザーの中で眠っている。

 凍った時の中の彼女はそれはそれは美しい。凍て付く胎内で眠り凍った時を持つ彼女。その美しさは、携帯電話の向こうの彼も認めている。氷付けのぜんまい。フリーザーの中の彼女の表皮は、すべらかでひんやりとしていて、清潔だ。僕は彼女を世界一美しいと思う。拾った時のそのままの美しさを、彼女はフリーザーの中で誇っている。ああ、いつか僕にはこの鍵を使って、彼女の時間を動かす時が来るのだろうか。彼女が眠りについた春を動かす時が来るのだろうか。来るかもしれない。けれど今ではない。

 僕は鍵を握ったまま、今日も彼女を眺めている。少し間違えばぜんまいを巻いてしまいそうなくらいだけれど、僕はそれをじっと我慢する。鍵を握る手に汗が混じると、僕は扉を閉める。こうこうと明るいフリーザーの青い光が消えて、僕の部屋は闇が満たす。午後12時。布団に入る。窓の外では昼夜構わず吠え立てる常識知らずの昆虫が鳴いている。フリーザーの中で彼女のぜんまいと春は凍ったまま、僕の時間だけが過ぎていく。おやすみ、と僕の春に呟いて、目を閉じた。

 きみも夢の中で見ているだろうか。半永久の春の中で、君を殺そうとする夏の日差しを。

 :終: