: 春雪2 :

 綺麗な魚がいたんだ。向こうの川の、上の上の方、ひやりと溜まった鏡の淵に。すいすい泳いでいた。何て言うのだろう、あの赤い魚は。
「見に行くかい?・・・ほしかったら、捕ってあげるよ」

 ある日彼女は薄く紅を差したきれいな顔でわらって、瓶の中で泳ぐ魚を見に行くか、と僕を誘った。僕は、そう、多分。二つ返事でついて行ったろう。
 彼女はいつも、きれいな顔立ちによく似合うきれいな着物を着ていた。きっとお金持ちの家の娘だったのだろうな。僕の姉はそんなに上等な着物は一枚も持っていなかった。だから彼女のきものはあまり目にしない特別のもので、もしかしたら僕の目に彼女は天界の人のように、竹の中から出てきた人のように、映っていたかもしれない。
 彼女は魚の腹のように白い指でもって幼かった僕の手を握って、山の道を進んでいった。夏。むっとし濃く粘った緑の匂いと、見えない所から降り注ぐ蝉時雨の中を、彼女と僕は手をつないで何も話さないでひたすら歩いた。ひらひらと目の前を過ぎるのは、極彩色の蝶か彼女の袖か。
 視界を山吹色の狐の着物が横切っていった。下の町で買い物でもしてきたのだろうか。ぷんと魚の臭いと共に。珍しい事じゃない。
 彼女は道を縫うように進んでいく。足取りは軽い。軽いのはきっと彼女の足取りだけ。でも、人の声のしない空気だけは、きっと僕にだけ、重かった。
 暫く歩いて、彼女は止まって振り向いた。ふわりと長い髪が空気に広がって、一瞬間で元通り。
「この奥にね、淵があるでしょう」
「うん。でも、あっこは、入ってはだめだと、みんな言っているよ」
 奥の淵へ行ってはいけない、怖いことがあるよ。僕らはみんなそう聞いて育った。大人もみんな近づかない。きっと彼女の家もそうだろうに。彼女は薄く紅さした唇をちょっと上に引いてにっこりと笑った。
「大丈夫、みんな挨拶をしないから怖いことがあるのよ。ね?ついてきて。ご挨拶、しなくてはね」
 袖を押さえて彼女は滑らかに藪を掻き分けた。そこに小さな獣道。
「この奥に祠があるの。みんな知らないのねえ。さあ、行きましょう」
 彼女の袖は不思議に、至る所に手を伸ばす枝に掴まる事無く、泳ぐように奥へ奥へ。終点には小さな小さな祠があって、小ぢんまりと僕を威圧していた。積まれた石の上の祠。その隙間や小さな屋根にふかふかとした苔や小さな植物。思わず頭を下げた僕。彼女はそれを満足そうににこにこしながら見ていた。ざわざわと周りの木々の葉ずれ。
 獣道を戻るのかと思ったけれど、彼女は祠の横の藪をまた掻き分けた。掻き分けた先には、低めの赤い鳥居、そこからやっぱり苔むした細い石畳が続いていた。蝉時雨もどこか遠くに聞こえる。淵から漂う足元に纏わりつく冷気。身震いひとつ。
 彼女はすいすい進んでいって、とうとう僕らは淵に着いた。上を木々に覆われた湖面は所々木漏れ日が射してまばらにまだら。
「ほら、これよ。この瓶」
 彼女が僕の後ろから手を回して、僕の目の前に大きめの瓶を差し出した。視界の両端できれいな色の袂が揺れている。
 瓶の中では、確かに。黒い魚が窮屈そうに泳いでいた。ぎょろりとした目玉が無表情に僕を見て、方向を変えた。黒曜石の剥片のような鱗が、淵と同じいろにぬめりと輝いた。瓶には蓋がしてあって、古ぼけた布切れでそれは覆われていて、随分と昔のもののように見えた。
「ねえ、この魚、いつからこの中に居るのかな」
「ううん、分からない。でも、窮屈そうだと思わない?」
「窮屈そう」
「ねえ、この魚、私はいつか、逃がしてあげようと思うの」
 そして彼女は、僕にこの淵について語った。
「この淵にはね、むかし、むかし、大きな主様がいたの。それは黒くて立派な魚の主様で。昔はこの辺りも人が少なくて、村だった。その村の人たちも、主様をありがたがっていたわ。みんな上手くやっていたの。でもある日、主様はお嫁様が欲しくなった。ここの淵は暗いでしょう、主様自身も黒いでしょう。きれいなきれいな婚礼の衣装を着た、きれいなきれいなお嫁様がそばに居てくれたら、どんなに良い気持ちだろう。そう思って、主様は村の人に頼んだの。きれいな花嫁様をひとり、自分にくれないか、って。それに村の人は驚いた。いくら主様と言えども、人と魚は一緒に住めない。何しろ人は水の中では死んでしまうもの。それに、人とは違うモノ、そう言って食べてしまう気かも知れない。そういう意見も起こって、みんなはそれを信じてしまった。それからみんなは主様を悪い主様だと言って、体を半分に割ってしまった。片方は、まだこの淵に泳いでいるわ。私たちには簡単には見えなくなってしまったけれど。
・・・それで、そのもう片方が、この瓶の中のお魚」
 そう言って彼女は瓶を揺らした。じゃぽん、と空気が水の中に沈んだ。魚は気にもせず相変わらず窮屈そうに泳いでいた。
「いつか、私は、この魚を、逃がしてあげようと、思うのよ」
 もう一度そう言って、彼女は瓶を僕の前からどかした。僕は何も言えなかった。彼女の話が、幼かった僕には難しすぎたのかも知れない。それでも、僕には、彼女が少し寂しそうな笑みで今までの話を語った事くらいは、分かっていた。
 暫く僕が黙っていると彼女は、急に明るく笑って、僕の手をとった。いつの間にか、瓶はどこかに行っていた。
「ちょっと、君には難しすぎたかしら?さあ、そろそろ帰りましょう。長居をしすぎてはね」
 彼女がそう言った時、突然、空が赤くなった。夕焼け。やけに早すぎる、急すぎる。淵の水面を見る。映った空が紅い。夢じゃない。見る見る間に空が夜に変わっていく。月が出る、星が出る。天がすごい速さで回転した。
 気づいたら、朝日。僕は、夜と朝の境目を初めて見た。
「・・・ああ、一日経っちゃったわねえ。ごめんなさいね、さ、早く戻りましょう」
 帰りの山道の途中で、彼女は彼女の弟の話をした。
「私には弟が居るのよ。そうね、あなたが少し、似ていたのかも知れない」
「知ってるよ、お姉ちゃんの弟は、よく神社に絵を描きに来るお兄ちゃんでしょう」
「そうよ、あの子、知ってるのね。仲良くしてあげてね」
 彼女の弟と言うのは、僕よりも何歳も年上なのだから、仲良くしてもらうのは僕の方だと思ったし、僕と彼はいっこも似ている所が無かったように思ったけれど、彼女はそんなの気にしていないようだった。彼女は、魚の話は秘密よ、と言って、僕の口に指を当てた。
 山から降りたら、もう昼間だった。暑い日差し。一日経った。それが僕には信じられなかった。あの一瞬で夜が更け夜が明けたのなんて、そう簡単には信じられなかった。けれど、町に帰ったらみんな日付が変わっていたから、本当に一日経っていたんだ。
 僕は彼女のとの約束どおり、あの魚と淵と、小さな祠の話を、誰にもしなかった。ずっと。そして、それからずっと彼女とは会っていない。弟とはよく会ったけれども。何でも、彼の話によると、彼女は次の年の春に結婚をするのだと言う。だから色々と忙しくて遊べない、と彼は言った。そうか、お姉さんは結婚するんだ。そう思ったら、寂しくなって、それからずっとあの赤いきれいな着物の袂が忘れられない。
 けれども不思議な事に、彼女の結婚の儀式が執り行われた、と言う話はついぞ聞かなかった。結婚式が行われるはずだったその日には、春だというのに雪が降っていたのを、覚えている。

 そして今、僕はあの山のある町に戻ってきた。父も母も他界してしまって、誰も待っていないこの地が故郷と言えるかは知らないが、一番思い出の多い土地がここだから、きっとここが僕の故郷なんだろう。何だか、懐かしい。
 山に入ってみようと思った。彼女に案内されたあの淵が本当にあったのか、確かめてみようと思った。
 山道を登る。僕にはもう、狐の山吹色の着物は見えないだろうか。そう思ったら、ひょいとそれは通り抜けていった。良かった、変わっていない。この山はまだあの日のまま。蝉時雨もそのまま。けれど今は僕一人。汗をぬぐって先へ進んだ。
 獣道はまだあった。あの時より、少し草が増えたろうか。きっと多くの大人はこんな所に気づかない。奥の祠は、あの時と寸分違わぬ態度で立っていた。僕はまた頭を下げた。満足そうな彼女の顔は、今は無い。
 小ぶりの赤い鳥居も苔むした石畳もあった。足元の冷気まであの時のまま。僕は淵へ出た。
「・・・どちら様?」
 淵には、せいの高い男がひとり。
 淵のほとりに人が立っているのを見て、僕は本気で驚いた。露骨に顔に出ていたと思う。相手も驚いたようで、掛けた声にそれが見て取れた。
「え、と、僕は」
「ああ、君はよく神社に遊びに来ていた子だね。僕の絵を良く見ていた」
 彼は、そう言って、笑った。ああ、彼は。
「よく分かりましたね」
「他にあまり人を知らないんだ。少ししか知らなければ、その少しがちょっと変わったってすぐ分かる」
「変わりませんね」
「まあね、それより、君、ここに来たと言うことは、姉さんに秘密を貰ったろう」
 良かったら家で話そう、そう言って彼は淵のほとりを進んだ。僕はそれについていく。
 彼は淵の近くに家を建てていた。淵からは見えない。家からは淵がよく見える。少し、怖いな、と感じた。彼は僕を茶の間で待たせて、少しした後、冷えた麦茶を持って来た。冷えた麦茶などなくとも、この家の中は淵の冷気を溜め込むようにひやりとしていたのだが。
「悪いね、夏場はこれしかない」
「いえ、ありがとうございます」
「それで、君も貰ったんだろう、姉さんの秘密」
 彼女に少し似ている目鼻立ちで、彼は笑った。
「忘れられた?」
「え?」
 彼は囁くように質問した。僕はそれをはっきりと聞きたかった。
「忘れられなかったでしょう、姉さんの着物」
 だからここに来たんだろう、と彼は言う。
「赤は、姉さんにすごく似合っていたからね」
「あの」
「ん、何?」
「お姉さん、結婚したんですよね?」
 彼はそれを聞いて、少し考えるようにして、それから、喉で短く笑って、答えた。
「結婚、したよ、姉さんは」
「でも、婚礼儀式が行われた、って、僕は聞いた覚えが無い」
「だって、それはそうだよ。君は聞かなかったのかい、その後の話」
「え?」
「結婚式当日、花嫁は何処かへ消えてしまった。けれど町から出たと言う話は聞かない。忽然と、だ。目を放した隙に」
「・・・知らなかった」
 初めて知った。覚えていないだけだったろう、きっと父や母は話していた。僕はあまり考えたくなくて聞いていなかったに違いない。
「でも、結婚、そうだね、結婚はしたよ。姉さんは縁を結んだ」
「・・・だれと?」
「秘密の主と」
 彼がそう言うと、淵の水面がどぽんと音を立てた。その一瞬。盛り上がった水の中に。赤い、鱗が。彼女の着ていた、赤い色が。
「今の」
「見に行くかい?・・・ほしかったら、捕ってあげるよ」
 彼は小ぶりの瓶を持って、腰を上げる。僕は淵から目が離せずに、けれどそのまま、彼について行った。
「一日が、経ってしまったんです。お姉さんとここに来たとき」
 淵のほとりを歩きながら、僕は話す。
「ああ、あれね。面白かったろう?でも、残念ながらもう見られない」
「どうして」
「主様がお嫁様を貰ったから。もう不思議は起きない」
 彼は残念そうに言った、けれど、不思議が見られないことに対してだけではない。それが僕には分かる。
「ねえ、君」
「はい?」
「夢を見るだろう。水の中の黒い夢」
「・・・はい」
 その通りだ。僕は夢を見る。あの日からずっと。暗い水の中の夢。
「いつから?」
「お姉さんと、ここに来てから・・・です」
「本当にそうかい?」
 分からない。
「ねえ、君。怖いこと、何だか知っているかい。昔大人が言っていただろう。この淵では怖いことが起こる」
「知ってます・・・でも、内容までは」
「この淵、すごく深いんだ。見てごらん、底が見えない」
 淵は黒く深く横たわっている。ああ、気分が悪い、少し。僕の影は映っている?分からない。
「こういう所では」
「はい」
「子供がよく落ちる」
「それじゃあ、」
「姉さんが、悪いことをしたね」
 彼は屈んで、淵の水に瓶と手を浸した。振り返ったとき、瓶の中には、きれいな、赤い鱗。
「これを持って行くと良い。君の未練、姉さんの着物。ねえ、今まで気づいていなかった?」
「・・・本当、疑いもしませんでした」
「無理も無いか。姉さんは、どちらも区別はしなかったから」
「・・・だから、きっと、自覚しなかった、僕は」
「君が、もう既に死んでしまっていたことをね」
「ええ、有難うございます、そこまで言って頂いて」
「いいえ。ああ、これは、お帰り、と言うべき?違うな、君はこれから上へ行くんだ」
 そう言って彼は、鱗の入った瓶を僕に手渡す。すり抜けるかと思ったけれど、しっかり持てた。
「さよなら」
「はい。お姉さんに、」

「・・・伝えておくよ」
 これで何人目だろうか、姉さんの秘密は結構多くの人に渡っているようだ。僕は今は鏡のような水面に向かって、言葉を投げかける。
「姉さん、あなたは少し、人の記憶に残りすぎだ」
 僕の苦笑もきっと姉さんには届いていないだろうね。
 水面下に少し、赤い着物が揺れた。

 :終:

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