: 酸欠は飛降りよりも甘く :

 佐伯裕一は店のカウンター前の小さな椅子に座って待っていた。水野アキラを待っていた。日が暮れるまで水野アキラは店へ来ない。それでも、佐伯裕一は白い巻尺を床に転がして伸ばしては巻き直し、伸ばしては巻き直しして、椅子に座ったまま、本日閉店の札の掛かったドアの内側でまだ影すら見えない水野アキラを待っていた。
 日が完全に店の前のビルに隠れた頃、本日閉店のプレートを掛けたドアが開いた。
 ちりん、と可愛らしい鈴の音。

「ただいま、裕一君」
「おかえりなさい、アキラさん。ここはあなたの家じゃないですけど」
「いいじゃない、どうせ泊まるんだから」

 水野アキラは背広の上着を脱いで、佐伯裕一に手渡す。巻尺をポケットにしまって、ハンガーに丁重に背広を掛け、それを持って、佐伯裕一は店の奥、自宅に消える。それを追おうとして、水野アキラは店のドアの鍵を内側から閉めて、改めてただいま、と言ってから店の奥へと入った。

「アキラさん、新しいこのスーツ、着心地どうでした?」
「うん、いつもながら、すごく楽だったよ。流石」
「それは良かった。ねえ、アキラさん」

 背広を掛けたハンガーを壁のフックに掛けてから、佐伯裕一は水野アキラを振り返った。漆黒の瞳に鋭い光一閃、鋭く閃いて水野アキラの脳を射る。

「ネクタイ、きつかったですか?」

 そう言って、佐伯裕一は、少し背伸び。手を伸ばして水野アキラの首元、気管の真上に手を掛ける。

「うん、少し、きつかった」
「すごく、じゃ無くて?」
「そうだね、少しだった」
「いつも計ってるのに」
「そうだね」
「明日はもっときつく締めてあげます」
「それじゃあ、仕事中に倒れて死んでしまう」
「嫌ですか?」
「嫌かも」

 水野アキラのその言葉に、佐伯裕一の瞳の光は針のよう。

「うそつき」
「どうして。苦しいのは、嫌いだな。本当だよ」
「うそです。それなら、僕のところから離れる筈」

 僕にはアキラさんを木端微塵にする力はないから、と言って、佐伯裕一は水野アキラを見上げる。細い指は水野アキラの首に添えられたまま。美しく整えられた爪の並ぶ指先に力がこもる。

「僕は、アキラさんを、」
「ねえ裕一君、苦しいよ」
「・・・苦しいのが好きなくせに」
「そうだね。少なくとも、木端微塵よりは」
「どうして?」
「そっちの方が甘いから。ねえ、裕一君」
「何ですか」
「苦しいな、手を、緩めてくれない?」
「嫌だ、って言ったら?」
「いいよ、このまま殺してみる?それとも、本当は、」

 水野アキラの気管に加わる圧力は更に大きくなる。佐伯裕一の瞳から、鋭い光は、消えない。

「本当は、裕一君、きみが」
「・・・アキラさんをこのまま殺したら、僕は」
「裕一君は?」
「生きて行けない」

 いつだって冷たい屍体に恋焦がれているくせに、と水野アキラは声に出さず思う。
 佐伯裕一は、水野アキラの気管が潰れる様に高揚を覚える。そしていつだってそのまま、気管を総て潰して水野アキラを殺したい衝動に駆られる。
 しかし、水野アキラを殺せば、もう一生、この高揚は味わえないのだろうな、と思うと、首に掛けた指から力が抜けていく。

「僕は、アキラさんしか好きになれない」
「それは嬉しいな。それならもう少し生きていられる」
「本当は木端微塵で死にたいくせに」
「まさか。実感を持てない死に方は嫌いだよ」
「じゃあ、明日も、ネクタイを締めてあげます。今日よりもきつく」
「うーん、死なない程度にね」
「・・・緩めれば良いのに」
「それは・・・無理、緩められないなあ」
「それは、苦痛への恋?」
「いいや、裕一君への愛だよ。ねえ、生還の記念にキスして良い?」
「何を今更、」

(明日も生還したいな)
(・・・本当に、苦しいのが好きなんですね)
(だって気持ちいいじゃない?苦しくなるまでするのが、好きなんだよ)
(甘すぎて窒息しそう)
(そう。いつか酸欠で死ぬなら、裕一君の、)

 :終: