: 手帳/海の底、廃墟に住まうは、 :

 その都市は、随分と昔に滅んだのだと聞いた。原因は、分からない。
 街の入り口で、ぼろぼろになった看板を見つけた。ペンキが剥げて赤い錆色が目立つが、まだ白を残すそれは、この強い日差しを強烈にはね返していた。僕はその眩しい白に目を焼かれつつ、その明るさに輪郭が削られぼやけて見える黒を読んだ。文字として浮かび上がる、その白と黒のきついコントラストを見て、僕は街に足を踏み入れる。白に焼かれた名残か、目に映る景色は、チカチカとした数種類の色に染め上げられていて、とても見難い。ちゃんと歩けているのだろうか?それすらも曖昧だ。流れ落ちる汗が鬱陶しい。
 目が元に戻っても、この白昼夢の様な白い景色は変わらない。地面が反射する光は強く、建造物によってできた影の黒ですら白に変えてしまいそうだ。見上げた、雲の気配すら無い空の色もまた、地上の白を更に強調するかの様なまぶしい青。この景色の全ての色が、僕の中から「現実」と言う感覚を忘れさせる。リアリティの喪失。今、強く想像すれば、僕はトカゲにだってなれる、そんな気がする。僕の現実感の喪失の原因にはもう一つ、ここに殆ど音が無い事も含まれるのだと思う。
 大半の生物―主に昆虫類―の生命活動が盛んになるだろうこの季節に、この街の中で聞こえる音らしい音と言えば、瓦礫の崩れるカラカラと言う虚しい音だけと言うのは、この街がもう活動していない事の象徴だ。かつての都市はもう、その活気を失い、忘れ去られた廃墟となってしまった。昔は、かなり大きな都市だったと聞く。高いビルが立ち並び、常に音が絶えない、かつてのこの国の中心地。鉄製の赤い大きな塔だってあった。
 時折吹き抜ける、涼しさの欠片も無い纏わり付くような風は、潮の臭いを運んで来た。海が近い。その証拠に、僕の両脇に列を成す、以前は住宅だったのだろう荒廃した箱のかつての窓には、塩がうっすらと付着し、その濁った白で光を反射してきらきらと光っている。
 そうだ、この都市の滅亡の原因の1つは、この海だったのかも知れない。今でも続いている海面の上昇。今でこそ、その勢いは緩やかなものだが、この都市が滅びる直前、その速度は今より遥かに速く、手に負えないほどだったらしい。お陰で、この国の他の都市だった所も大きな被害を被っている。県と呼ばれていた土地と土地を移動するのだって一苦労だ。
 目の前の坂を上がり、少し下り、立ち止まる。下り坂の途中からは既に海だから。緩やかな傾斜の、白いコンクリートの浜に、波が黒く湿った跡を残す。目の中一杯に空よりも深い青が佇んでいる。澄んだその青の底には、都市の大半が沈んでいる。例の鉄製の塔の残骸も、沈んでいる。当然ながら、その水面下の都市に人影は見当たらない。響く音は、静かに打ちつけ、白く砕けていく波の音だけ。
 ばしゃり、といきなり異質な音が響く。びっくりしてその方向を見ると、ここから少し離れた水面に大きな波紋が広がっていた。何かが跳ねたような痕跡。
 ふと気付けば、周りからざわざわと音が聞こえた。低い。海鳴りに似ているが、どうやら人の声のようだ。ごく近い距離に聞こえるのだがしかし、その音源が見えない。これは幻聴だろうか?
 ・・・いや、確かにいるんだろうな。僕の周りは大小の足跡だらけで、それらは全て白い浜に黒く湿っている。まるで、今、人が海から上がってきたような、跡。
 ざわざわ、ざわざわ。
 囲まれている。とん、と背中を押された。そう知覚すると同時に僕の体は前にのめり、深い青に倒れ込む。タイミング良く引いた波に流されて、僕はいとも容易く岸から離されて、そして沈んで行く。目を開けると、下には揺らめく都市が広がっている。空を飛んでいるかの様な錯覚。水に沈んでいると言うのに、僕の頭の中には、焦りや危機感は皆無だ。『あの時背中を押された今の僕は魂で、肉体は岸に残されているんだよ』頭の中のもう一人の僕が耳元で囁く。案外それは真実なのかも知れない。もう随分水中にいるのに、息も全て吐き出してしまったようなのに、苦しくも無いのはその所為だ、きっと。
 ・・・また、人の声。ごく近くで、ざわざわ、ざわざわ。ぐるりを見回すと、水がうねり、ヒトの形をかたどり、それらがひしめき合って僕の周り360度を囲んでいる。光を通す、青く透明な群衆。時折ゆらゆらとその形を曖昧にさせながら、段々と僕を囲む輪を縮めて来る。低い声は近く、大きくなる。
 彼らはきっと、この都市の住人だ。元・住人でも無く、現在形で住人なのだろう。滅んだ都市に、今もなお留まり続けるしか無い人達。水の底でゆらゆらとかつての街が揺れる。もしかして、僕を新しい住民と勘違いしているのだろうか。海底の都市の住み心地はどうなものだろう、そんな馬鹿馬鹿しい考えが浮かぶ。
 呑気にもそんな事を考えていると、うねりの一つに腕を引っ張られた。そのヒトガタの、目にあたると思われる二つの黒い穴と、僕の目が合う。口にあたるのだろう大きく開かれた、また黒い穴からは、低い呻き声のような音が出ている。上手く喋れないのだろうか。周りのうねり全体はざわざわと話していると言うのに。
 いつの間にか輪は下降していた。掴まれたままの僕も当然ながら更に沈んでいく。彼らに招かれた僕は、彼らのように水のうねりに変換されるのだろうか。これが最後になるなら、あの暑い地上をもう少し見ておけば良かったと、そう思う。
 ざわざわ、ざわざわ、ざわ・・・
 ザボン、ザアァ・・・
 不意に何か、海の青より目立つ、実体を持った蒼い何かが、結構な速さで白い空気の泡を纏いながら、透明の群衆を突っ切り、僕の腕をかすめて通り過ぎて行った。群衆は散り、強く腕を掴んでいたうねりも消えた。彼らは消え際、悲しげな低い呻き声や、南国の鳥のような奇妙に高い声を上げた。そして、音がふっつりと途切れる。
 僕は無音に取り残された。彼らを散らせた、あの蒼は何処へ行ったのだろうか。・・・いた。遠くの方、良く見えないが、あれは尾びれの様に見える。
 すっと意識が暗くなる。今度は、もう少し水中都市を見ていたいなんて思った。相当なわがままだ。
 瞼と開けると、そこは背中を押されたあの浜だった。また、白の際立つ世界。服は濡れていない。夢でも見ていたのだろうか。ついさっきの不思議な体験を思い出す。足元を見た。・・・実際の話、本当に僕は、あの海底の都市にいたのだ。足元の白い浜には、乾き、塩を残して蒸発した多くの足跡が残っていたのだから。
 ばしゃり、とまた音が響く。今度はしっかりと見た。あれは・・・そうだ、「イルカ」だ。ずっと昔にこの国からいなくなった、と聞いたけれど。しばらく、こっちを見ていたイルカは、尾びれを翻してまた海の中へ消える。海の底には街が。街の中には、きっとまだ・・・。
 両脇に塩をかぶった箱が列を成す道を、都市の名残を、白が強烈に、目に痛い程影を目立たせる無音の街を、僕は戻って行く。街の入り口まで。
 強い日差しを未だ強烈に白くはね返すその看板には、その白の眩しさに削り取られ、ぼやけた黒が浮かぶ。白と黒のきついコントラストの文字は、「ようこそ、いらっしゃい」。ぼろぼろに風化した看板の白と文字に、先程の蒼い記憶を重ねる。こういう意味も含んでいたのか?ただの街の名残かと思っていた。今も、この看板は意味を持ち続けていたのだ。街の入り口で。深読みのし過ぎかも知れないけど。
 白に焼かれた目に映る景色は、チカチカとした数種類の色で染められている。滅んだ都市を、後にする。僕はもうここには戻って来ない。懐かしく思う事があろうとも。
 夏の日、陽炎に佇む忘れ去られた廃墟で。

 :終: