: 手帳/青白い、鉄塔の記憶 :

 山の天辺に、鉄塔が建っていた。もう錆び付いて、青い蔦が絡まって、奇妙なオブジェのようになった鉄塔だ。
 これは以前、電気をどうこうする鉄塔だったはずだが、今はもうその機能を残しては居ない。ただただ、ここに立っているだけ。途中の太い柱には鳥の巣が出来ていて、親鳥が雛に食事を与えている。
 近くで見てみても、何だ、実に普通の錆びた鉄塔じゃないか。
 この山の麓にある町のお婆さんの話では、この鉄塔はもっと面白いもののはずなのだけれど。いくら前に座って待とうとも、鉄塔はただの錆びた鉄塔のまま、今のところは何の変化も示していない。その兆しすら見せず、鉄塔は僕の前に突っ立っている。
「もしや、はずれを引いたかな」
 ちょっとだけ落胆して、頭を掻いた。でも、暫く此処に留まる予定で来たから、もう少しじっくりと鉄塔を見て、山の空気を楽しもうと思った。此処から遠くを見て、座っているのも悪くない。
 目の前には、空が。そして小さな町と、砂地と、草ッ原と森が、下の方に集まって見える。
 僕の後ろには、円く奇妙な形の葉をした、鉄塔に茂る青々とした蔦が、風にそよいでさわさわと音を立てている。
 そうだ、これはこれで、十分気持ち良いじゃない。
 風の渡る山の緑の中で、寝転がり、瞼を閉じた。

 目を覚ますと、夕方だった。もうこんな時間か、これでは暗くて山を下りられないじゃないか、と寝こけていた自分にあきれた。仕方が無い、此処で一晩過ごすしか、無さそうだ。
 土の上で、携帯用の火を熾す。ぽわっと火が点いて、目の前の夕焼けと同じ色が燈る。その上に鉄板を置いて、一週間前に釣って干しておいた魚を炙る。本当は魚はあまり好きではないのだけれど。それと、今日麓のお婆さんから頂いた芋を焼く。
 日が沈みきる頃、僕も食事を終え、火を消した。途端、辺りは濃い緑の闇に包まれた。もわっと強烈な木々の緑の匂いが鼻をつく。下の方には、町のわずかなオレンジの光が見えた。以前は、この町を含む、この国は、宇宙から見たら、それはそれは明るく光り輝いていた。不健康なほどに。今は、仄かに明るい程度だろう。確認するすべは無い。観測機器の情報を伝達してくれていた建物は、もう無い。この塔だって、その情報を人々に与えるために重要な役割を担っていた。けれど、もう、無い。
 兎に角僕は、その町の光を眺めていた訳だけれど、不意に、背後に、気配を感じた。何かが、活動する気配。
 僕の背後には鉄塔がある。そして鉄塔しかないはずなのだが。
 後ろを振り向いた。
 僕は息を飲む。そこには、昼間見た鉄塔とは全く異なった様相のそれが立っていたから。
 塔に巻きついた蔦のあの青い葉は、その円い葉を青白く光らせていた。そう、まるで「電球」のようだ。それを体に巻きつけて、鉄塔は冬の月のように冴え冴えと蒼い光を放っていた。そして蔦の根元は、鉄塔に繋がっている。
 ぶぅん、ぶぅうん、と幽かに低い音を立てて、葉が内側から振動している。音に合わせて、蒼い光は明滅を繰り返す。緩やかに鉄塔が息づいているように、聞こえた。
 その様に、僕は時を忘れて見入った。お婆さんの話は嘘ではなかった。
 僕はずっと、その鉄塔を眺めていた。ぶぅん、ぶぅんと低く深く呼吸をする鉄塔に合わせて、僕の呼吸も、低く深く。何度も深呼吸をしていた。

 役割を忘れ去られてしまった今もずっと、山の上で、鉄塔はひとり、昔を思い出している。かつて自分が存在していた世界の欠片を、此処に再現しようとしている。巡らされた電線は、もう無い。ただ、ひとりで、錆び付いたからだを震わせて、低く深く、呼吸を繰り返している。
 今夜は僕もそれに付き合おうと思う。

 結局、僕は一睡もできず、朝に例のおばあさんに再会して笑われたのだ。

 :終: