: 四辻のものの話 :

 夏は嫌いだ。とにかく暑い、夏が嫌いだ。まあ、からりと澱みなく晴れていてくれれば、良いのだ。日陰に入れば涼しい。それなら良い。しかし、だ。この湿気の充満した、いわゆる“蒸し暑い”夏は、大嫌いだ。この熱を内包した湿気は、日陰に入っても、肌に纏わりついて、糸を引く。そして絶えず蒸発する汗とその蒸気に篭る熱が、更にそれをひどくする。鬱陶しいこと、この上ない。非常に、不快である。それでも、直射日光に当たっているよりは、日陰のほうがまだ幾分ましであるのは確かなので、私は夏はできる限り日陰を歩くよう心がけている。
 そんな折、日陰のない場所でこの上なく不快なものに遭った。湿気の塊、いや、壁とでも言うべきか、とにかく大きな湿気の塊だ。とある四辻を渡る折であった。その中央で、もわん、とそれにぶつかったのだ。その密度に驚いて思わず息を呑んだら、溺れるかと思った。それは局所的サウナのようであり、通り抜けた後もその熱気は長いこと尾を引いた。翌日、翌々日にもそれはあった。四辻で、もわん、ぶわん、とそれにぶつかる度に不快になる。手で払っても湿気は移動しない。しかしこの道を通らない訳にもいかないのだ。何とかならないものだろうか。何ともならないまま一週間が過ぎようとしている。
 そして一週間が過ぎたとある夜、私は久しぶりに酒でも呑もうと、近くのコンビニに買い物に行った。当然、例の四辻を通る。夜にも、あれはあるのだろうか。恐る恐る、中心に足を踏み入れたが、しかし予想に反してそこには何も無かった。安堵したが、少々拍子抜けの感があった。帰り道、また四辻。また、何も無い。やはり夜には湿気も収まるのだろうか。気分が良くなり、四辻を渡り切った。すると、ふっ、と辺りが暗闇に包まれる。四辻の街灯が、背後で消えたのである。点滅もしていなかったのに。多少気味が悪い。しかし、段々と暗さに慣れてきた目には、これといった異常も見つけられない。安心した。こう見えて私は怖がりだ。しかし私は何を思ったか、振り返ったまま、再度四辻に足を踏み入れた。中央に立つと、四方から風が吹き抜けて心地よい。そう思った時だ。足元が、もわん、と生ぬるいのに気がついた。頭の方は風が通って涼しいのに、足元だけが、もわり、と。なにやら、泉のように、ドライアイスの煙のように、コンクリートから湿気が沸きでて居るように。動けずに立っていると、足元の湿気の泉から一筋、上に伸びて私の背を、ずるり、と撫でた。まるで、人の、手のように。ずるり、ずるり、もわり。湿気が身体を撫で回して、それがついに頭に触れた途端、もの凄い耳鳴りがした。ピィィ、という音ではない。ザザザザザ、と、チューニングされていないラジオの発するような耳鳴り。うわ、と情けない声を出して、私は2歩引いた。湿気から出た。けれど、まだ、もわりが目の前に在るのが分かる。次々と湧き出して上に伸びていくのが分かる。嫌な気配だ。何か形をとろうとしている。私にはそれが取ろうとする形が、予測できてしまった。あれは、大きくて、歪んで、ひしゃげている。手がある、足がある、五本の指、頭部。その頭部が、その見えない顔が、私を見た気がした。ぐるぅり、と首の回る気配。私はそれに背を向け走り出した。ぼとり、と背後で音がしたが走り出した。しかし、何かに躓いて、転んだ。危ない。明かりを点けなくては。携帯電話のライトを点けた。足元を見た。躓いたものが見えた。首だった。あれの、首だった。ぼとり、と落ちた音の正体だ。大きな黒目ばかりの目が極端に中央に寄っている。半開きの口が斜めについている。それが、にたり、と。
 気づいたら家の前に居た。手に携帯電話がある。ライトが点いたままだ。ライトをつけたまま四辻から家まで来てしまった。後悔しても、遅い。私は静かにライトを消して、家に入って鍵を閉め、一度も電気を点けずに寝た。
 次の日、朝日が完璧に部屋を満たしてから、私は布団から抜け出た。外に出ることにした。晴れていて良かった。ベランダに出ると、からりと澱みなく晴れ渡っていた。これから大丈夫だろう、そう思って外に出た。甘かった。
 靴を履いて、一歩外に踏み出した。踏み出したところで、ぶつかった。もわり、もわん、ぶわん。
 ・・・・・・今夜から、どうしよう。

 :終: