: たてがみ公爵の空腹 :

 草原の北にありますたいそうご立派なお屋敷には、かの有名なライオンのたてがみ公爵がいらっしゃいます。公爵は今、朝ごはんを食べ終えて、ゆったりとお湯に浸かっていらっしゃいます。本日の朝ごはんは、若い雌鹿のやわらかい肉でありました。余す所なく召し上がることが出来ましたので、公爵はたいそうご満悦の様子でお湯に浸かっております。そうして先ほど食べた朝ごはんの味を思い出し、満足に喉をぐるると鳴らしてあごまでお湯に浸かりますと、公爵のあごの豊かなひげを中心に、ぱっと水面に虹色の脂が広がりました。それからほんの少しして、このお風呂場の扉を控えめに叩く音がしました。
「どうぞ」
 そう公爵が仰ると、失礼します、という声とともに、きっちりと制服を着こなした青年が扉を開けて入ってきました。
「やあ、君か」
「ええ、私です。公爵、いつものお手入れを」
「ああ、やってくれたまえ」
 青年は袖を捲って、片手にブラシを持って、雌鹿の美しい脂の広がった湯船に足を浸し、公爵の傍まで行きます。そうして、血や脂や、ぺったりと張り付いた腸などで固まりかけた公爵のひげと、たてがみとを、お湯とブラシを上手に使ってほぐしてゆきます。そうして、頑固な血の塊を苦労してほぐしながら、青年は不思議そうに公爵に云います。
「私は不思議なのです、公爵。何故あなたが毎日、ご自身で狩りをなさるのか。あなたは公爵なのですから、着席なさっているだけで、お食事など私が運び致しますのに」
「ああ、それはいけない」
「何故です?」
「それはね、君。そうでないと生きているという感じがしないからなのだよ。それに、顔もわからぬ相手に喰われるというのは、向こうも気持ちが悪かろう。自分を喰う相手をしっかり見せるのは、強いもの、喰らうものの義務だと、わたしは思うのだがね」
 それと、自らの力で殺せぬものは、本来の食べ物ではないからね。公爵がそう仰ると、なるほど、と青年は納得して、公爵のたてがみを美しくすることに専念しなおします。
「そういえば、君」
「はい、何でしょうか」
「この前君にあげた肉は、食べたかね」
 先日、目を覚ました青年の枕元には、空色のリボンがきれいに巻かれた雌鹿の腿肉が置かれていました。
「ええ、頂きました」
「そうかね、それは良かった」
 公爵は嬉しさで目を閉じ、大きく鼻で息を吐きました。新しい血の臭いの混じった生臭い空気が青年の髪を揺らしますが、青年はそれを気にも留めずに、石鹸を使って優しい手つきで公爵のたてがみをごしごしと洗います。
「実を言うと」
 おおかたの汚れがさっぱりときれいになった頃、公爵がぽつりと仰いました。そこで公爵が言葉をお止めになるので、青年は手を止めて公爵の次の言葉を待ちます。
「わたしは、本当はね。君が喰べたくて仕方がないのだ」
「ええ、存じております」
「毎晩、君の白い喉を引き裂いてそのあたたかい血で喉を潤し、薄い肩に爪を立て腹に牙を立て肉を喰らう夢を見る」
「左様ですか」
「それにな、どうにもわたしの臓腑の中には、君専用の胃袋があるようなのだよ。いくら若く脂の乗った肉を喰らっても、どんなに満腹でも、そこだけが常に空っぽなのだ。そこに君が入れば、私の胃袋は瞬時に満足するに違いない」
「私は、この職についた時から、覚悟を決めておりますが」
「しかし、君はひとつきりなのだ。花や野の生き物のようにふえる事なく。だからわたしは常に空腹だ。特に、君の肉と骨とが近くに無いと、それがいっそう酷くなる。そうしてわたしは不安定になる」
「成る程、」
「なあ、これは何なのだ?」
「さあ、愛でしょうか?」
 最期の仕上げを終えて、青年は満足げに微笑み、聞き慣れない単語に思考を巡らせる公爵の前に跪き、うやうやしくその鼻先にくちづけました。私は嬉しゅうございます、公爵。では失礼。そう言って青年はブラシと石鹸を片付けて、扉を開けて廊下へ行ってしまいました。公爵はその後姿をご覧になりつつ、先ほどの言葉を思い返し、数分悩み、また明日の朝ご飯について考えをお戻しになるのでした。

(ああ、わたしの空っぽの胃袋は、いつ満たされるのだろう)

 :終: