: 手帳/番外/しんかいのさかな :

「今回はシンカイギョを見に行こうと思うんだ」
 荷物をまとめながら、教授はにこにこして云った。
「君も来るかい?」
 僕の頭の中には、暗い海の底をたゆたうグロテスクな魚の群れが思い描かれたけれど、僕はそれらを間近に見たことがない。それが見られるならば、と、僕はすぐさま返事をした。

「あの、教授?」
「なんだい」
「教授は、何を見に来たんでしたっけ」
「シンカイギョだよ」
「でも、ここ・・・」
 果たして、教授の先導でたどり着いた場所は、大いなる樹海だった。国から許可(これが取るのが難しい)の降りた研究者と、番人しか立ち入ることの許されない広大な樹海が、今僕の前に昏い内部をちらつかせている。呆然とするしかない。
「おや、樹海は嫌いかい」
「いえ・・・いえ!滅多に入れませんしね!サンプル採取にはうってつけですとも」
「頼もしいね」
「教授の助手ですから」
「じゃ、覚悟を決めて」
「え?」
 不穏な言葉とともに、薄いブルーの特別許可証が手渡される。
「え、教授、覚悟って」
「いいかい、二宮君。何があっても、ぼくらは許可証を持っているんだ。動揺して騒いではいけないよ」
「・・・動揺したら?」
「死んじゃうかもね」

 先生の言葉は真実だった。人間嫌いで警戒心の強い(でも、とても美しかった)番人は、僕ら2人を見るや否や、何の逡巡も無く銃を突きつけてきた。その時僕が通して貰えたのは、奇跡に違いない。僕は動揺しすぎて言葉も出なければ体さえ動かせなかった。この時ほど、自分の体に感謝したことは無い。
 恐る恐る差し出した許可証を見て、渋々通してくれた彼にお礼を言って、先に進んでいた教授に追いつく。
「あれ、教授の許可証は?」
「ああ、ぼくは良いの。彼とは知り合いだし・・・上から認可されてるしね」
 我ながら、すごい人の助手をやっていると思う。

 初めて踏み入れた樹海は、外から見たそれとは全く違っていた。気の遠くなるような年月を経て育った木々は高くそびえ、その身は種々の苔に覆われている。広く伸ばした枝々は見慣れない動物たちを庇護している。苔はしっとりと足元の倒木をも覆っていた。葉にろ過された日の光は僅かに緑色に染まり、柔らかく樹海のあちこちを照らしている。思わず、何度も感嘆のため息が出た。
「美しいものだろう」
「ええ・・・すごい、です」
「今にもっと綺麗なものに会わせてあげるよ」

 そうして、たどり着いたのは一本の大木の根元だった。教授が肩から荷物を下ろして、中を漁る。取り出したのは、緑色の音叉のような物体。
「教授、それは?」
「これで、シンカイギョを呼ぶ。普通の音叉じゃないよ」
「緑色・・・何で出来てるんですか?」
「それは秘密」
 そう云って笑って、教授は音叉を叩いた。木管がエコーを起こして居るような音だ。こぉん、こぉん、と音が森の奥に吸い込まれていく。
「二宮君、上を見てごらん。来たよ」
 視線の先には、僕が想像もしなかった生き物がいた。それは、様々な緑色の硝子のような鱗を全身に纏い、それをしゃらしゃらと鳴らしながらゆっくりと大木の周りを廻って降りてきた。表面は所々、濃緑の苔に覆われている。小型の鯨ほどの大きさのそれは、特徴的には優美な魚の姿をしている。それが、音叉の音に合わせて歌うように、こぉん、こぉん、と鳴いている。くるくるとその魚が回る度に、鱗は木漏れ日を反射してきらきらと光る。
「教授、」
「どうだい、これが森海魚だよ」
 僕は、教授の言葉に答えられなかった。
「二宮君?泣いてるのかい」
「いえ、その、す、すみません・・・こんな、きれいなものがいるなんて」
「・・・やっぱり、君を連れてきて正解だったな」
 緑色の美しい魚は、もう僕らの目の前に居た。理知的な黒い瞳が僕と教授を見ている。教授が魚に話しかける。
「グレナフォン、こちらはぼくの助手の二宮君だ。よろしく頼むよ」
 グレナフォン、と呼ばれたその魚は、僕に視線を定めた。
「触ってごらん」
 教授に促されて手を伸ばすと、頭を一回こすり付けて、するりと離れてしまった。
「・・・嫌われましたか?」
「いいや、上出来だ」

 その後、教授は苔生した岩の上に腰掛けて、ゆらゆらと宙を泳ぐ緑の魚を眺めながら、僕にぽつぽつと話を始めた。
「誰もが忘れてるだろうけど・・・ここはもともと、海だったんだ。もう誰も覚えちゃあ居ない。大変動、あれで、ここの海は消えてしまった。何処かの島国では、海が上昇したみたいだけどね。それで、一気にここらはこんな樹海になってしまった。何で、グレナフォンのような生物が生まれたのかは、解らない。ただ・・・見て解ったろうけど、彼の通信法、鯨みたいでしょう。でも体は魚だ。でも、空を飛んでる。きっと、そう云うことだよね。グレナフォンの両親を、番人の彼と一緒に発見したときは、驚いたよ。彼らの事は、誰にも知らせてない。知っているのは、ぼくと、番人の彼と、二宮君だけだ」
「教授、」
「二宮君、ぼくは番人の彼と違って人間だから、あと何年かで死んでしまうだろう。だから、その後、ぼくの跡を継いで、グレナフォンの様子を見に来てやって欲しいんだ。良いかい?」
 僕は黙って頷いた。先生は少し寂しそうに微笑んだ。
「さて、そろそろ、帰ろうか。グレナフォン、ぼくらは帰るよ」
 先生の声に、グレナフォンは僕たちの方へ戻ってくる。僕の方をじっと見ている。またね、と云うと、こぉん、とひとつ返事をして、彼は巨木の枝の隙間を器用に縫って、やがて見えなくなった。

 5年後、教授が亡くなった。明け方に、教授から電話があった。研究所に来てくれ、というその言葉に従って、研究所に入ると、いつものように椅子に座ったまま、もう既に。机の上には、深緑のインクで、グレナフォンと番人の彼を頼むよ、と一言。
 緊急の電報を番人に出した。翌日、葬儀の直前に届いた返事には、一言、だから人間は嫌いだ、と。封筒には緑色の鱗が2枚。グレナフォンの両親の鱗だという。火葬の直前に丁寧に棺に入れた。昇った煙は三色、白と、薄い緑、濃い緑。緑の煙が2尾の魚に見えたのは、眼の錯覚だろうか。
 教授の本当の年齢を、誰も知らないのには驚いた(僕には大体見当はついたけれど)。

 その後も、僕は教授の言葉どおり、ひと月に1度はグレナフォンの様子を見に行っている。番人の彼ともだいぶ打ち解けてきた(彼には、終に教授からも教えてもらえなかった音叉の秘密も教えてもらった)。グレナフォンは相変わらず美しい。
 今日も、あの美しい森に優美な魚が泳いでいるのかと思うと、何とも云えず嬉しくなる。

 :終: