: いただきますの前 :

 まるで何事も無かったかのように静まり返る部屋の中で。
 床に滴り落ちる血の雫を見た。僕の目の前の椅子にだらりと座っている君を見た。僕と、君と、君の座る椅子と、窓と、床と、腐りかけた木の扉を、見た。血に濡れた僕の両手を見た。この血は、僕の額から流れる血と、君の胸から、手首から流れ落ちる血だ。一体、この紅い液体はどんな味がするのだろう。ぺろりと舐めてみて、甘いと感じた。僕は、僕が狂っているのだと云う事を思い出した。
 さっきまで起こっていた事は、あまりにも現実離れしている。つまり、自分の事で無いような気がする、と云う意味だ。僕は僕を、ひとつ上の視点から眺めていた気がする。君をここに引き摺って来る時も、君を椅子に座らせて動けないようにした時も、目が覚めた君に笑いかけた時も、逃げたいなら逃がしてあげる、と君にナイフを渡した時も、君が縄を切るのに失敗して手首を深く傷つけてしまった時も、君が激昂して僕に切りかかって来た時も、君の美しい膚に深々とナイフを沈めた時も。僕はもう一人の僕を体に置き去りにして好きにさせた。そしてそれを上から見ていた。あの時の僕の高揚も、絶望も、焦燥も、何もかもを冷たく見ていた。あの時から、いや、君を手に入れたいと思った時からずっと、そうしてふたつに分かれて、僕は狂ってきたのだろう。
 ああ、美しかった君は今や動かぬ肉の塊に成り果てている。あの高潔な魂は何処へ行った?狂った僕に愛想を尽かして出て行ってしまった。残されたのは、動かない、でも充分に美しい、かつては命の原動力だった紅い雫を滴らせる入れ物だけ。
 君の命の名残を、その証を、僕は余す所無く利用するつもりだ。こんな狂った僕に、とても素晴らしい贈り物だと思う。魂の還って来る場所を、全部取り込んでしまおう。僕の中に。今度こそ逃げられないように。
 掠れた声が漏れて、僕が笑っているのが分かった。
 僕は君の前に傅き、その手首に、そこから流れ出る美しく甘い雫に、恭しく口づけをする。
 ああ、誰かが泣いている。声を出さずに泣いている。誰が?ここには僕しか居ない。どうして涙が出ているのだろう。こんなに素晴らしいものが目の前にあるというのに。それに、僕は笑っているじゃないか。声まで出して。
 なのに、どうして。

(何が悲しい?僕には、実行者の僕の心理が分からない)
(さあ、本当に狂っているのはどっちの僕だろう)

 :終: