: 昔は確かに飛べたんだ :

「軽くなりたい」
「お前、もう充分軽いだろ」
「そうかな」
「ああ、もっと肉を食えよ」
「肉は嫌いだよ、体温を上げたくない」
「冷たくなったら死ぬぞ」
「体の中に熱がこもってると、酷く気分が悪くなる。そういう事、ない?」
「気にしたこと無い。まあ確かに、風邪ひいて熱が出ると不快だけど」
「そうそう、そんな感じ。おれは、それが君の平熱位でも耐えられないんだよ」
「お前、平熱低いもんな」
「だから、冷たい水を飲んでそれが体の中を通ると安心する」
「道理でよく氷水飲んでると…基礎体温を上げろよ、そんで一緒に体重も増やせ。軽くなりたいって、もう軽すぎるくらいだ」
「おれにはまだ重いよ」
「大体、それ以上軽くなってどうするってんだ」
「飛べるようになりたい」
「…人間は空を飛べない」
「そんなこと無いよ、おれは昔は飛べたんだ。それが知らない間にこんなに重くなっちゃって、もうあの木の梢に止まる事さえ叶わない。空はもう手の届かない場所になってる。下から眺めるだけだ、もうあそこがどんな場所だったかも思い出せない」
「それで良いんじゃねえの」
「どういう事」
「空の景色を忘れたなら、そのまま忘れてれば良い。飛べなかったんだって、諦めろよ」
「それは、無理だよ。だっておれがこのままじゃ嫌なんだ」
「どうして」
「わかんない…怖いのかも知れない」
「怖い?」
「そう。怖い。このままずるずると重い体を引きずって、余計なぐるぐるを抱えたまま生きるのが怖い。肉を持ってここで色々なものを抱えて生きているという事が、怖い…どうして、なんて聞かないでよ。おれにもわかんないんだから」
「おい、」
「…安心してよ、死にたい訳じゃあない」
「どうだか」
「本当だよ、死んだら…何にもならない」
「生きるのが怖いんだろ?」
「だからって死にたい訳じゃない、死んだら終わりだ。おれは軽くなりたいだけ」
「よく分からない」
「おれにもよく分からない」
「何だそれ」
「何だろうね…音とか、光とか、文字だけ食べて生きていければ良いのに。もしくは、そういうものでこの体ができてれば良かった」
「さっきも言ったけど、お前は人間なんだからさ、そりゃ無理だよ」
「…分かってるよ、そんなこと。願望だよ、これは」
「…ただの願望にしちゃ、随分と辛そうな顔する」
「そうだよ、これは切実な願いだ。憧れが強すぎて、でもおれはそれには近づけなくて、息がくるしい」
「結局お前はどうなりたいんだよ。人間やめたいわけ?」
「そうだなぁ…やめたいって云ったら?」
「とりあえず、殴る。人間でいろよ」
「はは、ひどいな…そうだな、おれは、きれいになりたいだけかも知れない」
「綺麗に?」
「そう、きれいに…外見の話じゃなくてね。内側を全部押し出して空っぽにして、透明で軽くてひんやりしたものに入れ替えてしまいたい」
「ひんやりしたもの…」
「そう、何か清潔そうなイメージ、ない?そういう軽くて清潔なもので内側を満たしたい」
「別に、お前はどこも汚れて無いと思うけど」
「君には見えないだけだよ、おれは…うん、おれは、だって自分はきたないと思う。嫌いだ」
「どうして」
「重いから」
「…また、それ」
「おれの中では話は循環してるんだよ。そう、重いのが嫌だ。これはもう体重とかそういう話じゃないのかも知れない。良く分からない内に処理したはずの色々な物の欠片が溜まって、胸の底に澱みたいに沈んでる。真っ黒で、胸やけのするような色だよ。そのかさがどんどん増えてって、僕はその分どんどん重くなっていくんだ。そうするともう足も腕も頭も動かなくなって、体が下に沈んでくような気分になる。そうすると更に空は遠くなって、それが、怖い。そんな風にしかなれない、自分が嫌い…軽くなりたい」
「…軽く、ね」
「そうすればおれは、雲に座ることだってできる気がする」
「雲の上に行きたいって?」
「うん。やわらかい雲の平原に下りられたら素敵だと思わない?でも、そうするにはこの体、重すぎるんだよね」
「何だか、死にたがってるみたいに聞こえる」
「だから、死にたくはないんだって」
「まるで病気だ」
「そうかも知れない。おれは病気なのかな。ねえ、病気だったら君が治してよ」
「俺は医者じゃない」
「つれないなぁ…ねえ、人間でいろって云ったのは、君だよ。おれが云ってる事が人間をやめるっていう風に聞こえたなら、君がそれを諦めさせてさ、おれを人間でいさせてよ」
「無理云う。どうせお前は俺の話なんか聞かないくせに」
「そんなこと、ないよ」
「嘘くさ…なあ、雲の上ってどんな所?」
「そうだなぁ…余計なものなんて何一つ無くて、わずらわしい地上のにおいなんて無くて、ただただ、白く光る平原が広がってる。頭の上にはすっきりした濃紺の宇宙が広がってて、無数の星がきらきら瞬いてる。それで、どこからか吹いてくる風が平原を揺らすんだ」
「…何だか寂しい風景だな」
「そうかな」
「だって、そこにはお前ひとりなんだろ?音もない、暖かいものもない、誰もいない…寂しくないか?」
「…うーん、そうか…寂しい、かな」
「俺だったら寂しすぎて、嫌だな」
「うーん…あっ、じゃあ一緒に行こうよ。そうしたらおれ、寂しくないし」
「…何アホなことを」
「本気なんだけどなぁ」
「冗談だろ」
「君も、おれが居なかったら寂しいでしょう」
「まあ、多少は」
「じゃあさ、」
「嫌だ。諦めろよ」
「ケチ。あーぁ…でも、それ位、それくらい軽くならないと、おれはきれいになれないのに」
「軽くなるのが先?きれいになるのが先?」
「どっちでも。きっかけさえできれば後は両方交互だよ」
「…面倒くせぇな」
「そうだねえ…でも、おれはそうなりたいんだよ、本当に」
「…軽くなったからって、そんな飛んで雲の上まで行けると思うなよ」
「えっ、何で?」
「俺が重りになってやる。こちとら人間やめるつもりは無いからな。お前がいくら軽くなろうが、俺が放さなきゃお前は飛べないだろ」
「えぇ…なにそれひどい」
「嫌ならお前は人間のままでいろよ、そのまま」
「ひどいなぁ…君は、本当にひどいよ、そんな難しいこと云うなんてさぁ」
「難しくない」
「君にはね。おれには…難しいよ」
「難しくても、そうするんだよ。重いってんなら溜まるたびに吐き出しちまえ。ここに、このまま、俺と同じ人間の姿で、触って話せるところに居ろよ。寂しいだろ」
「何それ、新手のプロポーズ?」
「お前のそのセンスないわ…」
「わぁ、辛口。でも、あーあ、ホント、ひっどいなぁ。君にそんな事云われたらさ、諦めるしかないじゃない」
「…それで良いんだよ」
「責任取ってよね」
「変な云い方すんな、気持ち悪い」
「はは、つれない。あっ、でもきれいになる以外でも、おれは体温あんまり上げたくないな」
「何で」
「おれはね、自分の体の中に熱がこもるのは嫌なんだけど、あったかいものを触るのは好きなんだよ」
「それで?」
「おれの体温が低くて表面温度が低ければ、あったかいものをもっと良く感じられるでしょう」
「ああ、そうかも」
「たとえば君の体温とかね」
「はぁ?…また馬鹿なことを…」
「重要だよ、すごく」
「あぁそう…つか冷たい。冷え性?お前は女子か」
「それは女子にも冷え性の男にも失礼な発言だ。あー…君の体温は気持ちいいね」
「はいはい…いい加減離れねぇ?」
「もう少し」
「…どれくらい」
「おれが満足するまで」
「…あぁそう…」

(胴に回された腕が、薄いシャツ越しにもひんやりとしている)
(それが、会話の間にわずかに力がこもる)
(要するにこいつは、大した寂しがりなのだった)

 :終: