: サヤキ翁の話 :

 私の故郷の山には、サヤキ翁というものが居た。今もいるのかも知れぬ。
 サヤキ翁は山奥に住んでいて、木の根や実、葉、動物を食い、沢の水を飲んで生きているという。身の丈は今で言うと2メートル半ほどで、全身に長い黒い毛がみっしりと生え、目は白色に光る。これが年齢も、性別も、そもそも人間だかどうだかも良く分からない。ただ、村ではサヤキ翁と呼んでいる。
 稀に山仕事をする男たちに目撃されるが、何をするでもなくただ通り過ぎてゆく。だから男たちもサヤキ翁に何もしない。以前に若い衆が何人かでサヤキ翁の後をつけていったが、結局帰ってこなかった。数日後に仕事の衆がその辺りまで行くと、若い衆の着物だけが落ちていたという話は聞いた。着物には特に破けたところも、血の跡も無かったらしい。サヤキ翁のうろつく場所は山の中でも複雑な所なので、若い衆が帰ってこなかった事とサヤキ翁との関係は分からない。村の年寄りはこういうことはままあると言った。
 小さいころに、サヤキ翁との子を成したという女が居た。村の誰も本気にはしなかったが、女は胎の子はサヤキ翁との子供であると言い張った。結局、この女と関係を持った男は分からず、名乗り出ても来なかったので、その子供本当の父親は分からなかった。私もその子供を見たことがあったが、どうということは無い、普通の子供であった。何度か遊んだ記憶もある。
 その子供は、6つの時に行方不明になった。川や沼の底まで捜索したが、痕跡すら探し出せなかった。母親である例の女は、その子供は時期が来たからサヤキ翁のもとへ行ったのだと嬉しそうに言った。しかし、そのふた月ほど後に、子供は村はずれの木の上で惚けているのを発見された。その辺りはよくよく探したし、6つかそこらの子供がそんな木に上れる筈も無いので、大方神隠しにでもあったのだろうという事に落ち着いた。母親はそれ以来、山に向かっては「まだ駄目ですか、まだ駄目ですか」と繰り返し呟くようになってしまった。子供の方は、それから何年かして、ふらりと出て行ったきり帰ってこなかった。山と村との境に、その子供の草履と着物が置かれていて、ふつりと足跡も消えていたのだが、境守りは仕事の衆以外誰もそこを通らなかったと云う。女はそれからにこにこと笑うばかりになった。しかし、それから後もサヤキ翁の傍に別のものがいたという話は聞かない。
 私自身も昔、サヤキ翁を見たことがある。父親に連れられて、山の仕事を教わっていた頃である。木立の向こうに、黒い毛むくじゃらで目を白く光らせているものを見かけた。一目見てそれがいつも話に聞くサヤキ翁だと分かった。父親は気付かなかったらしい。父親が他の仕事の衆と仕事の話をしているのを機に、少し木立に近寄り、小声で声をかけた。私の声が聞こえたのか、サヤキ翁は「ボゥ」とも「ホゥ」ともつかぬ低い声で答えてから、2本の脚でのそのそと山の奥へ消えていった。
 私は20かそこらで村を出たまま、戻ったことが無い。今あの村がどうなっているのかは、分からない。村の名前も忘れてしまった。ただ、村の様子とサヤキ翁の事は覚えている。私が知っているサヤキ翁の話は、このくらいだ。

 :終: