: 「私」小説 :

 私という存在は、私によって書かれ、外部に出力されることにより私から離脱いたします。
 文章に私自身を内包させ、私から分離させた私は、ですから、書き連ねることで私を私の外へ押し出すのです。そうすることで私自身は空っぽになっていく。私という出来事は、私によって書かれることで、私でない何かへと変貌していく。ですから私は、空っぽなところへ投入された私自身の出来事を文章に練りこんで外へ出すのです。それが私の小説です。
 私という人間は、私以外の何かからできあがっていますので、私によって書かれた私も、ひとたび私の外へ出てしまって、私によって読まれてしまえば、他の私を構成する雑多な要素のひとつになって、その中へ埋没してしまうのです。だから、どうということはない。何があっても、私が私を外へ押し出してしまえば、どうということは、ないのです。
 今現在の私という存在は、私そのものではないと云えましょう。むしろその私をこうして観察している私、つまり空っぽの私が私の本質なのであって、充実しているように見える、雑多なものから出来上がっている私は空っぽの私を守る鎧なのです。何から守るのか、どうして守るのかは分かりませんが。
 雑多なものから構成されている私の構成要素は、読んだ物語であり、人から聞いた物語であり、つまり、私が手に入れた情報です。これらは私が私以外の存在と相対し、それらに対応するための物語を作るために私に蓄積されます。つまり、それらは私が嘘を作るための情報源です。
 私の観察対象である私は、常に嘘を作りながら存在しています。というよりも、先ほど述べたような情報の蓄積が観察者としての私であり、そこから情報を組み合わせて作られた物語、つまり作られた嘘が、観察対象の私という事になりましょうか。私が嘘であったところで誰にそれが分かりましょう。多分、私自身にもそれが嘘だとは分からないまま、私は嘘の物語として存在し続けるのでしょう。
 最近、観察対象である私は、日々に現実感が無いと感じています。それはその通りで、何故かといえば、嘘の物語である私は、この私にとって嘘なのであり、作られた嘘である私にとってその嘘は紛れも無い真実であり、なのに同じ私であるはずの私がそれを嘘だと認識しているというその齟齬から現実味のなさが生じるのです。「私は現実を生きているはずなのに真実味が無い」と私が感じるのは当然では無いでしょうか。
 その違和感を失くすためには、私という存在が嘘なのだと理解することが一番なのでしょうが、現実的に考えてそれはなかなか難しいことでしょう。ですが、私と私以外との関係の上においてその私は成り立っているのですから、その関係というものが幻想のようなものなのだ、だからその幻想のために存在している私の存在もまた曖昧で、正体の分からない、嘘のような存在なのだと理解することはできるのではないでしょうか。しかしこうすると、現実感が無いどころか私にとっての現実がなくなってしまって、私という存在は消えてしまうので、どうにもこうにも、上手く行きそうにありません。
 では違和感の元である、私自身が嘘なのだと言うこの私が消えればいいのかと言いますと、それも少々違うような気がします。私という嘘の情報源である私が消えてしまえば、そこから出来上がっている私もまた、暫くは動くかもしれませんが、その内機能を果たせなくなって消えてしまうでしょう。
 ですから現実感がないというのなら、それが私にとっての現実なのだと理解するのがいちばん良いのかも知れません。もしくは、この私が作られた嘘の私と融合してしまえば、あるいは。
 しかし、私もそろそろ、私自身の出来事をフィクション化してフィードバックして嘘の私を作り上げるという作業が少々面倒になってきています。しかし、今更止めるわけにも行かないので、どうしようもありません。
 そうして今日も私はこうして文章を書き連ねているのです。いつかこの私自身がフィクションになって、うその私に取り込まれて、完全に現実味を伴った人間になる事を願って。

 :終: