: 黄金の馬が走る回路 :

 自分の頭の中の回路の緑の基盤を草原に見立て、部品を廃墟と見立て、そこを駆け巡る電気を黄金の馬に見立てて、彼はあの話をしたのだと思った。随分、文学的なことを云う電子の脳味噌だなと、感心した覚えがある。
 彼は体のすべてが機械でできたものだった。私は、彼と知り合ってからしばらくはそれを知らなかった。ある時同僚に聞かされて初めて知った。と同時に、ひどく驚いた。世間一般に流通している人の形をした機械と、彼とが同じものだとは到底思えなかったのだ。私は全く違和感なく、何の疑問も持たずに彼を人間だと思っていた。むしろ、彼が機械の集合体だという事にこそ違和感を覚えた。
 それを知ってから実際に彼と会っても、その違和感は消えず、だから私は、面と向かって彼に、君は人間では無かったのかと云うことはできなかった。

「夢を見たんです。広い広い草原の夢を。半袖には少し涼しい位の風が、柔らかい草の表面を撫でて、綺麗な薄い波を作っていて、とても気持ちが良い場所でした。そこにはビルも家もなくて、灰色の瓦礫や廃墟や、文明の名残の遺跡の一部が点在していました。僕は瓦礫のひとつに腰を下ろして、ただただ、雲をじっと見ていた」

 静かな声で語る彼の声を、私ははっきりと覚えている。美しい風景を思い返し、少し楽しそうに、少し寂しげに、柔らかな声で話す彼は、本当に、とても機械だとは思えなかった。

「雲を見るのに飽きて、地上に目を向けると、廃墟をすり抜けて、吹き抜ける風とは異質の風をまとって、何かきらきらしたものが走っているのが見えました。最初は、それが何なのだか、僕には判らなかったのだけれど……段々と近づいてきたそれは、立派なたてがみを持った金色の馬でした」

 彼はどこか遠くを見ていた。その視線は確かに私の方を向いていたけれど、その意識は彼の語る世界の中にあったようだった。

「しなやかな筋肉と、風にゆるくなびくたてがみ……綺麗な馬でした。僕の前で止まった彼は、それまで全力で走っていたようなのに、息切れのひとつもしていなかった。まるで、最初から僕の前に居たように、足を揃えて、黒い賢そうな目で僕をじっと見ていました。僕は、彼の美しさに見とれて、ただその目を見つめ返す事しかできなかった」

 夢、あるいはたとえ話、そんな話なのに、彼の唇が紡ぐ言葉は、私の中で明確な形を得て同時再生された。私の頭の中に、美しい黄金の馬が現れた。その鼓動さえ感じられるほど、現実味を帯びて。

「はじめまして、と、透き通るような声で彼が僕に云って…そこでようやく、僕は、これが夢なのだと知りました。彼は僕の名前を知っていました。以前に会った事があるかと聞いたら、彼は、会うのは初めてだったけれど、ずっと僕を知っていたと云うんです。夢ですから、そんなことがあっても不思議じゃないですよね。でも、僕はどう云う訳か、夢と解っているのに彼の言葉をそのまま流せなかった。彼…馬が話すのは、当然のように受け入れたのに。彼は、もうずっと前、僕が地上に存在した瞬間から、僕の事を知っていたそうです。と云うのも、僕が瓦礫に腰をかけて雲を見上げていた、風の渡るその草原は、僕の頭の中で、彼はずっとそこを走り回っていたからだそうなんです。彼が動く事で僕が動き、僕が動いていれば彼も動いていられると、そういう関係なのだそうですよ、僕と彼は」

 …私は、彼は知っているのだと思っていた。知っていた上で、回路を草原に見立て、部品を廃墟に見立て、流れる電気を黄金の美しい馬に見立てて、そういう話をしたのだと、そう思っていた。

「……先輩、もう解ってますよね。僕も夢の中で、それはまるで、電子回路のようじゃないかと、そう思いました。僕は言葉には出さなかったけれど、彼には伝わっていた。彼はゆっくりと頷いて…僕には彼の目が、少し寂しそうに微笑んでいるように見えた」

 そう云った彼も、ひどく寂しげな笑顔で、私を見ていた。

「それで、僕は…初めて、自分が人間ではないのだと、僕の頭の中には柔らかい脳味噌ではなく、回線や金属の集合体が入っているんだと知りました……それまで、僕は自分が人間だと思っていました。誰も、僕が機械だという事は、云わなかったから。けれど、僕は僕自身で知ってしまった。そうすると、じゃあ、みんなはそれを知っていたのか、僕は、僕が自分で思っているほど人間ではなかったのかと、急に怖くなりました」

 彼の目が伏せられた。声が、僅かに震えていた。

「そう、怖いんです。怖いと思うことも、怖い。この感情が、自然に出たものではないのが……怖いし、悲しいんです。おかしい、ですよね。僕は機械なのに」

 笑ってそう云う彼は、今にも泣き出しそうだった。この後に及んでも、私は彼を機械と見ることはできなかった。だから云ったのだ。君は人間だ、少なくとも私にとっては、と。

「……それは、嬉しいな。すごく。これが機械の中で計算された感情でも…うん、嬉しいです。先輩、ありがとうございます……最後に、先輩に話せてよかった」

 かたりと、何か小さなものが落ちる音がした。足元を見ると、小さな、小さなネジが一本落ちていた。

「でも、もう駄目みたいだ。折角先輩が、僕を人間だと云ってくれたのに、僕はもう、自分が人間じゃないと、知ってしまったから」

 悲しげな声で訥々と告げる、彼の表情は、彼が俯いていたために、見えなかった。
 だから、と彼は続ける。

「だから、機械に戻らないと、いけないみたいです」

 かしゃん、と軽い音を立てて、彼はその場に崩れてしまった。今まで見えなかった、それでも僅かな関節の継ぎ目が見えた。
 呼びかけても、もう反応は無い。目は閉じている。彼は、最早彼ではなくなってしまって、どこか遠くへ行ってしまった。それが無性に悲しくて、私は涙を流し、声を上げて泣いた。

 同僚が宥めてくれてようやく、涙は止まったが、悲しみは消えなかった。同僚は、あれは機械なのだから、壊れてしまっても死んだ訳ではないのだから、悲しむことはないと云うのだが、私にとって、あれは、彼という人間の死だった。現に、修理されて戻ってきた彼はそれまでとは全く雰囲気が違った。関節の継ぎ目は見えたし、意志もどこと無く、通じにくい。
 今度の彼は、自分が機械であると知っていた。相変わらず、職場の誰も、彼自身に彼が機械であるとは云わなかったが。

 けれど、つい昨日、私は人間であった以前の彼に会うことができた。
 夢の中で、風の渡る草原を、黄金の馬の背に乗って、彼は私の目の前にいた。彼は私を見て、たいそう驚いて、そうして、何だ、と云って、笑った。少し寂しげな、でも、明るい笑顔。私は何とはなしにその表情に安心した。
 彼が乗っている馬の隣に、もう一頭、彼のものより少し白みがかった金の馬が居た。彼女は、その理知的な瞳で、私をじっと見つめ、鼻で軽く私の手の甲に触れて、もう説明は要りませんね、と云ったのだった。私は頷いた。
 ……もう、説明は要らない。

 さて、私はこれを、誰に話そうか。同僚にでも、話そうか。彼は笑うかもしれないが、そうだ、彼だって、もしかしたら。

(私にとって、彼は確かに、人間だった)
(彼にとって、私は確かに、人間だったのだ)
(機械の体は置いていこう、魂ならここにある)

 :終: