: 竜の指輪 :

 もうかれこれ何年旅をしているのだろうか。私自身にも皆目見当がつかない。故郷が何処かも忘れてしまった。そんなものが、あったのかどうかも怪しい。いつからか、私は、この広い空間を旅しているのだった。以前着地した場所も覚えていない。
 背負った帆布製のバックパックは今にも擦り切れて中身を落としそうだ。大した物は持っていないが。それでも、旅の道連れだ。落として失くすのは惜しい。第一、ここでは落としたら最後、拾えないだろう。足跡もつかぬ空間だ。落ちる音はしないから、気付けない。周りは漆黒で、私は浮いているのか歩いているのか。同じ目線に星々は輝いているし、時々私の下を、横を、上を、下に、上に、斜めに、流線型のシャトルが行き交う。私は何処を旅しているのだろう。
 擦り切れそうな毛布を広げて腰を下ろした。休憩をしよう。バックパックから水を取り出し、飲んだ。この水は一体、いつ、何処で手に入れたのだろうか。考えてもわからない。曖昧な旅をする私は、視界の端に流星を見つけて、それを目で追った。
 流星の落ちた先には、土地があった。端がほつれて、地面との堺が曖昧な布が広げられているような土地だ。ぽっかりと、黒い空間に浮いている。突如現れた、地面だった。黄金色に輝いている。私は、立ち上がって、その地を目指した。ふわふわとした足元は、急に、確かなものに変わる。
 その地面につま先が触れた途端、漆黒の空間は消えた。星もシャトルももうない。前にも後ろにも、下にも、上にも。私は、何処までも広がる黄金色の草原に立っていた。空は美しい夕焼けだ。遠くに、クリーム色の山脈が見えた。
 山脈の手前には、小高い丘があった、そこから、灰色の服を着た人々の行列が、私の所まで続いていた。
「これは葬列だよ。向こうの村で男がひとり死んだのさ」
 私の隣に並んでいた老婆がそう云った。
「あの娘を御覧、旦那が死んで、頭がおかしくなってしまった。哀れなことだよ」
 老婆が指さした先、列から離れた美しい黄金の草原で、若い女がくるくると踊っていた。軽やかにステップを踏んで、たっぷりとしたスカートを、柔らかそうな長い栗色の髪をふわりと広げて、夕映えの景色の中で、女が踊っていた。素足で踊る彼女の足は、少し赤くなっていた。
「あんた、どうだね、あの娘を引き取ってくれないか」
 老婆が突拍子もないことを云う。私がまごついていると、老婆は私にひとつの指輪を手渡した。一見、何の変哲も無い、蒼い小さな石がひとつついた銀製の指輪だった。
「これを指にはめて、あの娘の事を想って御覧」
 私は老婆の云うままに、少し離れた所で踊り続けている女のことを想った。印象のままに、感じたままに、その姿を。すると、私の指の上で、指輪の形が変わった。指輪本体は二連に、蒼い石は、その二本を繋げる薄桃色の石に。
「ほら、あんた、あの娘を愛してしまったのだろう」
 ふと、昔読んだ本を思い出した。昔、がいつなのか、私にもわからなかったが。形の変わる指輪、本の図版には、古代の竜の絵。では、これがかの竜の指輪なのか、と私は納得した。それでは、私は、老婆の云うとおり、あの女を愛してしまったのだ。愛しいと、感じてしまったのだろう。
 私は老婆に一礼して、女の所へ向かった。女の前に立つと、彼女は踊りを止めて、私を真っ直ぐに見つめてきた。何処か焦点の合わない、黒い瞳だった。確かに、かわいらしいと、感じた。指輪を見せようと手を挙げかけたが、止めた。代わりに、礼をして、手を差し伸べた。踊りましょう、と。顔を上げると、彼女は嬉しそうに微笑んで、私の手を取った。軽やかなステップが再開される。穴の開きかけた靴で、私もステップを踏んだ。空気に踊る彼女の髪の軌跡からは、夕焼けの影のにおいがした。
 それから数年来、私は彼女とともに暮らしている。「頭がおかしくなった」彼女の頭はそのままだが、私は一向に構わない。しかし、年に何度か、私の胸のうちを不安がよぎる。私は本当に、彼女を愛しているのだろうか、この心は真に愛か、私は本当に彼女を強く想えるのだろうか、と。その不安は次第に、脅迫的な焦燥感をも私に植え付けようとする。
 その度に、私は指輪を取り出し、それに向かって彼女を念じてみるのだ。その度に指輪は確かに形を変えて、私はそれに安心する。
 安堵とともに、その確認方法に一抹の物悲しさを感じながら、私は彼女への愛を確認する。何度も、何度も。
 ……ああ、しかし、私の旅はようやく終わったのだ。今日も彼女の待つ家へ帰ることができる。
 願わくは、私が死んだ後に、彼女にまた踊りの相手が現れるように。

(そんな夢を、見たんだよ)

 :終: