: 屋敷の住人 :

「今日は雨ね、せっかくのお誕生日だって云うのに」
 姉が隣でそう云った。誕生日、と云うのは、姉のではなく、私の誕生日の事だ。
「別にいいよ、もう祝うような歳でもないし。それに私、雨は好きだよ」
「あら、まだあなた、祝ってもらうような歳よ。でも、そうね、雨も良いわね。虹は出るかしら」
 私は窓の外を見る。姉の言ったとおり雨が降っているが、雲が薄いのか空は明るい。この分なら、雨はじきに止んで、運がよければ虹も見られるだろう。
「虹、出るかもしれないね」
「そう?出たら良いわねぇ」
 無邪気な声で姉は云った。姉の声は澄んだ鈴の音のようで、とても美しい。この声で、誕生日を祝われると、このまま歳を重ねるのも悪くは無いと思えてくる。そう云えば、私は姉の誕生日を知らない。
「私の誕生日?……ううん、忘れてしまったわ。今まで長いこと、誰もお祝いしてくれなかったのだもの。ひとりだと、祝う気にもなれないわ」
 小さな溜息とともに、姉はそう云った。
「もう私、自分が何歳なのかわからないわ」
 見た目で判断しようにも、私にはわからない。
「だって私、もう自分の顔も忘れてしまったのだものね」
 そう、姉は見えないのだ。生まれてこの方、私は姉の姿を見た事が無かったが、それは姉本人も、もう長いことそうだったらしい。
 私と姉との間に、血縁関係は多分、無い。
『あなたが生まれた時からずっと、あなたを見ていたの。私、あなたみたいな妹が、欲しかった。ねえ、私の妹に、なってくれない?』
 小さな頃に、忍び込んだ祖父の書斎で、声だけの姉にそう話しかけられて、私は姉の妹になったのだった。
 この屋敷の中は広く、両親は優しかったが留守がちだった。普段屋敷に居るのは私と歳とった乳母と使用人が何人か。近所に遊ぶような友人も居なかった私にとっては、屋敷の中が世界の殆どだったが、その世界はいやに広くてがらんとしていて、もの寂しかった。その中で、優しく柔らかく透明に響く姉の声は、何かとても美しい宝物のように、私には思えたのだった。
 殆ど家に居ない両親よりも、声だけの姉は私にとって、血の繋がった家族以上に家族だったのかも知れない。
「……姉さんはきれいだよ。いくつになっても、きっと」
「本当?嬉しいわ。あなたも可愛いわよ、いくつになってもね」
「ありがとう」
 少し、恥ずかしい。私は決して美しい顔立ちの娘ではなかったのだけれど、姉に云われると、可愛い、が嫌味に聞こえない。やはり、姉は美しいのだ。
 姉とふたりで暫く話していると、部屋の扉が開いて、人がひとり入ってきた。姉もそれに気付いたらしく、隣で小さく笑う声が聞こえた。
「そういえば、今日だったわね」
「うん」
「新しいこの屋敷のご主人ね」
「今度は作家みたいだよ」
「この前は科学者だったわねぇ」
「あの人は、気付かなかったね」
「そうね、面白かったけれど。今度のこの人はどうかしら」
 姉が楽しそうに云うと、入ってきた人、男は、私達の居る方へ目を向けた。黒の短めの髪に、銀縁の眼鏡をかけた、真面目そうな人だった。
「こんにちは」
 私が声をかけると、彼はびっくりしたようにこちらを向いた。
「ああ、いらっしゃったんですね。こんにちは、はじめまして……僕は今日からこの屋敷に住む者です。サイカワと云います」
「サイカワさん、よろしくね」
 今度は姉がそう云った。
「もうひとり、いらっしゃるんですね。よろしくお願いします」
「……驚かないんですね、私の方がびっくりしました」
 私は本当に驚いた。突然姿の見えない姉に話しかけられたら、大概の人は驚くのに。
「噂は、聞いていましたから。このお屋敷には幽霊が出ると。その噂があったので、僕はここに住むことに決めたんですよ。それで、挨拶はしなければと思っていました。僕は死ぬまでここに住むつもりなので、そちら側に行った後も、よろしくお願いしますね」
 彼はぺこりと頭を下げた。その方向は、私達が立っている場所とは少しずれていた。なるほど、彼には声だけ聞こえるらしい。
「どんな方がここに出るのかと思っていましたが……おふたりとも、優しそうな女性の声で、安心しました」
 そう云って、彼はふにゃりと笑った。

(もう数年来誰も世話をしていない庭越しに、虹が見えた)

 :終: