: それが何とは云わない :

 夜空が見える天窓の下で、彼女はソファに体を預けて、僕の淹れた紅茶の入ったマグカップを片手に、大きな溜息をついた。紅茶が不味かった訳ではない。彼女があのソファにああやって座る時は、僕が出すのが紅茶だろうがコーヒーだろうが麦茶だろうが玄米茶だろうがおかまいなしに、そんな事とは全く関係のない所から、溜息が零れる。それは最早決まりごとだった。嬉しくない慣習。同時にささやかな喜びの慣例。僕はテーブルを挟んだ向かい側の席に座って、ミルクティを飲みながら、彼女が話し出すのを待つ。
「……あ、流れ星」
 彼女が口を開いたのは、2杯目の紅茶を受け取ってすぐだった。大きめに作った天窓を見上げると、確かに、夜空を幾筋かの光が走り抜けていった。けれど、
「願い事、しても無駄だよ」
 何かを考えているような表情の彼女に、僕はそう云った。
「え、どうして?」
「今の、流れ星じゃないから」
「そうなの?」
「この前、定期航行船の接触事故があっただろう。あれの残骸が燃えてるだけだよ」
「なぁんだ、ごみが燃えてるだけなの」
「そう。だから、願いは叶わないよ」
「残念ね」
 そう云って、彼女は視線を戻して、マグカップを持ったままソファに寝そべった。
「こぼさないでよ?カバー替えたばかりなんだから」
「解ってるわよ、子供じゃないんだから」
「なら良いけど」
 彼女は寝転んだまま、テーブルに積んであった雑誌を読み始める。彼女の手にあるのは先月号で、確か、スプートニク2号とライカ犬の記事が載っていた。彼女は特集の銀河の写真を見つめている。今日は話はなし、だろうか。珍しい。
 僕はそれに少しの期待と不安を感じながら、読みさしの本を手に取り、開く。先週出たばかりの夜空の写真集だ。開いたページでは、深い紺色の空に、細く白く輝く月が浮かんでいる。眼下の街の明かりなどものともしない、地球の衛星の姿。
「そういえば、人工衛星の処理の方法って、知ってる?」
 彼女が、ぽつりと呟く。いつものお話の始まりだ。なるほど、やはりお約束は守られなければならないらしい。僕の期待と不安は消え去った。今日は人工衛星か、悪くない。
「何、教えて?」
 本を閉じて、僕は話を促す。注意を彼女に向ける。だって、彼女が、いつもの話題を、わざわざ、僕に振ってくるのだから。
「普通の、地球の周りを回る低軌道の人工衛星は、地球に落として燃やしてしまうんだって。大気圏再突入、ってやつ」
 打ち上げられた故郷で殺されるのね、と彼女は笑っていったが、冗談だとしたら、なかなか笑えない。地球は衛星生産場兼処理場な訳だ。でも、自分から打ち上げたものを自分で処理するのは潔いかも知れない。
「燃やせないようなのは、軌道をもっと高いところに移動させるんだって聞いた……確か、そう、墓場軌道、って云うの」
「そのままのネーミングだね」
「私もそう思う。そこに、用済みの衛星が溜まってく訳。腐りもせずにね。でも、それが成功する確率って、高くないらしいわ」
 墓場軌道に乗れなかった人工衛星は、そのまま軌道上に浮かぶ粗大ごみになる。墓場軌道に乗った所で、不要物は不要物だし、粗大ごみであるのは変わらないけれど、現役の衛星との衝突の危険性が少ない分、まだ害はない。
「離れるのに失敗すると、他の衛星の邪魔になるんだって」
「そうだね、下手したら他の衛星とかシャトルとかと衝突して、その軌道がごみで埋まって、使えなくなるかも。破片がまた他のに衝突して、またごみが増えて……そうなったら手に負えないよね」
「何だ、知ってるんじゃない」
「知ってたけど、君が話したかったんだろ?」
「……やなやつ。これじゃ私が馬鹿みたいじゃないのよ」
 彼女は小さく頬を膨らませてみせた。彼女が話す時、僕が知らないふりをするのはいつもの事だった。だから、この「やなやつ」はお馴染みの台詞。まあ、僕は確かにいやな奴だ。間違っちゃいない。
 それにしても、人類はついに宇宙にまでごみを捨てるようになったのか、大したものだ。けれど、彼女の関心は、こんな人類の所業になど向いていないらしい。
「私もそろそろ、処理したい衛星があるのよ。もういらない、くるくる回って邪魔なだけなの」
「ふうん……またかい?」
「そう。もう何個目かしらね。でも、自分に引き寄せて燃焼吸収するなんて、疲れるし、ごめんだわ。追いやってしまうべきよね、墓場に」
 彼女がその「衛星」の役目を終わらせるのはもう何度目だろうか。この前は彼女の「衛星」はライオンに狩られるシマウマだったけれど。
「失敗したら、他の邪魔になるか、最悪、その軌道は使えなくなっちゃうけどね。さっきも云ったけど。どちらにせよ、失敗したら厄介なごみが増えるよ」
「何よ、随分意地の悪いこと云うのね。大体、もう既にごみよ、こんなもの」
 そう云って、彼女はまた笑ったのだった。僕としてはやっぱり笑えないけど。
 ひとしきり楽しそうに笑った彼女は、また溜息をついて、もういくつ目かの衛星を、慣れた誘導で墓場衛星まで送った。でも、またすぐに新しい衛星を打ち上げるのだろう。
 そうして、また彼女は天窓の向こうを見上げた。もう夜空に動く光はない。何を願うつもりだったのだろう。何を願っても、彼女に叶える気がないなら、叶わないだろうけど。
 またしばらくすると彼女は来なくなって、またしばらくすると彼女は戻って来るのだろう。楕円軌道を描く衛星のように。そしてまた僕に報告をするんだろう。「衛星が使いものにならなくなった」と、わざわざ、僕に。
 その裏の言葉も、感情も、僕は知っている。僕が知らないふりをするのはいつものこと。だから、僕は彼女の次の報告を、期待半分、不安半分で待っている。ずっと、ここで。僕が知っているという事を、彼女は気付いている。彼女は鈍感なふりが上手い。昔から。

「次の衛星は長持ちすると良いね」
「そうね……ねえ、いつになったら恋人をつくるの?」
「僕に恋人なんてできないよ」
「根暗だものね」
「えっ……それはひどいな」
「そう?」
「うん。まあ、君に長く続く恋人ができるまで、僕に恋人なんてできないよ。つまり、一生できないってことだ」
「失礼ね」
「おあいこだろ」

(僕は知らないふりで)
(彼女は気付かないふり)
(全く、ふたりして往生際が悪い)

 :終: