: それはもしや :

 街灯の光も心許ない深夜のこと。線路脇の道端で変なものに話しかけられた。
「ちょっとそこの君」
「はあ、なんでしょう」
 答えたは良いが、俺の周りに人影はない。声は至近距離、足元から投げかけられた。視線をそちらへ向けても、別段変わったものはない。ホームレスが寝ているわけでもない。目立ってそこにあるのは、平たい白い石だけだった。まさかこれが人語を解する……かはともかく、人語を発するはずがない。
「……気のせい」
「じゃないよ。現実から目を逸らすなよ青年」
 溜息が出る。どうやら本当に足元のこの白い石が喋っているらしい。驚きだ。
「これが現実なら何が夢なんだ」
「これが君の夢だっていうなら、そんなものはないんだろ。これは現実なんだから」
「絶望的な答えをどうも……で、何だよ石ころ」
「石ころ、とはひどいな。ころ、が余計だよ」
「何の用だ妖怪変化が」
「変化だなんてそんな大層なものでもないんだけど。まあ、どうでもいいか……そうそう、青年、君、俺の弟を知らないかい」
「俺にはお前とその他の石の区別はつかん」
「役に立たない眼だ。俺と、この隣の小さな石ころが同一に見えるとでも云うのかい」
「ぐだぐだとよく喋る石だな……っていうかお前、石ころとか自分で云ってるじゃねえか」
「俺のことじゃないなら何だって良いよ。で、知ってるの、知らないの、俺の弟」
「知らねぇよ。大体石に血縁関係なんてあんのかよ」
「失礼な、俺の弟は石じゃないよ」
「何だよそれ……」
 いい加減馬鹿らしくなってきた。どうせ酒のせいだろう。傍から見れば道端で喋らぬ石に独り言を話している気持ち悪い酔っ払いだ。情けない。帰ろう。
「……馬鹿らしい」
「あ、ちょっと待てよ」
「うっせえ黙れ幻覚」
「ひどい云いようだ。幻覚じゃないってば。ちょっと協力してくれよ青年」
「他をあたってくれ、俺は帰る」
「じゃあ途中まで」
「運べと?」
「うん。こんな小さな平たい石だよ、邪魔にもならないだろ」
「……まあ、そうだけど」
 馬鹿らしさついでに、協力してしまった。本当に馬鹿だ。酔った挙句に道端の石ころをお持ち帰りしているとは。どうせテイクアウトするなら旨い物か可愛い女子が良かった。
 拾い上げた石は、思ったよりもすべすべとしていた。平らと云うよりは、わずかに曲線を描いていて、何かの剥片のように見える。丁度片手に収まるサイズで、妙に触り心地が良い。ただ、石と云うには少し軽すぎる気がする。軽石か?こいつ。
「……投げたらよく飛びそうだ」
「やめてくれ、割れるだろ。これ以上破片にはなりたくないよ俺は」
「何だ、昔は大きかったのかお前」
「そうだね。君と同じくらいはあったかな」
「でかっ」
「そうかな。君が日本人青年の平均的身長とほぼ同じくらいな程度には平均的だよ」
「そうかよ……」
 大方、庭石を運ぶトラックから落とされたか破片か何かだろう。よもやそれが喋るとは思えないが。
 それにしてもこの石、よく喋る。しかも口調がムカつく。更に云えばワンフレーズが長い。石だから当然息継ぎも必要ないのか。
 いつまでもこんな道端に突っ立っては居られない。俺は家に帰るんじゃなかったのか。これでは石の思うつぼじゃないか。
 家に向けた一歩は難なく踏み出すことができた。しかし、まただ。数歩進むと、また得体の知れない声に呼び止められた。
「すいません、お兄さん」
 背後から掛けられたその声はいやに若い。若いと云うより、幼い。まだ声変わりもしていない子供の声。
 また石か、と思って地面に目をやったまま振り向くと、そこには石ではなくて、この近くの中学校の制服のズボンの裾と、指定の革靴が見えた。
「何だ、人か」
 そう云いながら視線を上げる。そこに立っていたのは、懐かしの母校の夏服を着た男子生徒だった。雰囲気からしておそらくは一年坊主。
 喪服のような制服からのびる成長過程の華奢な腕や細い手首、未だ喉仏の目立たない喉元、染めても無駄に伸ばしてもいない黒い髪、整った容貌の上の長い睫が目元に落とす陰、暗い街灯の光を受けて浮き立つような白い肌……その容姿の総てがいやに目をひいた。要するに、俺の前に立っているのは美少年だったのだ。女子に例えるならば清楚で儚げな美人。色好みの前に出したらおもちゃにされること請け合いのタイプ。
 その形のいい唇から、俺の発した言葉に対しての小さな笑い声と、返答が発せられる。
「人か、って云われたの初めてですよ。何だと思ったんですか?」
「石だと思った」
「石ですか。石と会話が成立しましたか?」
「向こうが話しかけてきたんだ。俺だって石が人語を発するなんて考えもしなかったよ」
「そうですよね」
「まあ、そんなことはどうでも良い。何の用だよ」
 こんな中学生がこんな深夜に一人で何をしているのか気にならないでもなかったが、何にせよ石に話しかけられるよりはよほど歓迎できる相手だ。
「ああ、そうでした。お兄さん、僕の兄を見ませんでしたか、この辺りで」
「……それと似たようなこと、さっき聞かれた」
 もちろんそれは俺の手に握られてさっきから沈黙している石のことなのだが。そうとも知らず、俺の言葉を聞いた目の前の見目麗しい男子中学生は、薄暗い街灯の下でもそれと解るほどに目を輝かせた。
「本当ですか?」
「俺の弟を知らないか、と聞かれたよ」
 その言葉の主はどこに、と言外に期待を滲ませて促す少年に対して、それがこの石だと示したらどのような反応をするだろうか。少し心が痛む気がしたが、その落胆を見てみたい気もした。
「……まあ、さっき云ったこれ、この石なんだけどな」
 そう云って手のひらを開いて差し出した石を見て、しかし少年の反応は俺の想像、予想、期待から斜め45度上を行くものだった。
「ああ、やっとみつけた」
 そう、長い睫を震わせて、ひどく満足気な笑顔で、感嘆の声を上げたのだった。これは、想定外すぎるだろう。
「兄さん、やっと見つけられたよ」
「うん、悪かったね。どうにもこのナリじゃ、自分で動けなくて」
 驚きに驚いている俺をそっちのけにして、奇妙な兄弟の再会のシーンが繰り広げられている。どう云うことだ。
「……おい、石」
「何だい、青年。感動の再会を邪魔しないでくれ」
「弟って、人間じゃねえか」
「うん。だから云ったろう?俺の弟は石じゃない、って」
「お前の血縁関係はどうなってんだよ……!」
「何ら不思議は無いと思うけどな。目に見える情報だけで整理するから混乱するんだ。もっと視野を広くした方が何かと便利だよ。想像力の欠如は生きていくための情報処理の上では致命的だ」
「……石にだけは云われたくねえ台詞だ……」
 今にも掌の中の石を握り砕かんとする俺の衝動を、弟の声が止めた。
「あ……あの、」
「え、何」
「あなたが、兄さんを見つけてくれたんですよね」
「まあ、見つけたと云うか、見つけさせられたと云うか……」
「どちらにせよ、僕一人じゃ見つけられなかったんです。あの、本当に……ありがとうございます」
 そう云ってぺこりと頭を下げる殊勝な弟の態度に、不覚にも、相手は男子生徒だと云うのに、あまりに不覚にも、きゅんと来た。
「別に、大したことはしてないし……」
「たかだか数歩、俺を運んだだけだし」
「おい黙れよ石」
「ひどいな、何だいこの扱いの違いは。まあ俺の弟がかわいいのは解るけど……変なことするなよ?」
「誰がするか」
 と、そこまで云って、俺はふと思いついたことを衝動的に行動に移した。空いている方の手を伸ばして、目の前の美形の中学生男子の、頬に触れる。
「え、な……なん、です、か?」
 少年の驚いた声が耳に届くも、そのままひとしきり撫で回して、つついて、少し引っ張る。
「……おい青年、変なことするなって俺云わなかった?」
「は?ちげーよ馬鹿!そんな意図はこれっぽっちもねえよ!」
「じゃあどんな意図だって云うんだ」
「いや、柔らかいのかな、と思って」
「……全く弁明になってないよ。まるで変態じゃないか」
「だからちげーっつの!石の弟だって云うからもしかしたら硬いんじゃないかと思ったんだよ」
「はぁ……青年、君はつくづく頭の出来が残念なんだね。何度も云うようだけど、俺の弟はれっきとした人間だよ」
「まあ人間っぽいけど……」
 ちらりと正面の少年を見る。俺が少し引っ張った頬をさすっている様子、触った感じは、確かに、まごうことなき人間だった。
 全く理解できない。ただひとつ云えるのは、もう俺はこんな幻覚に見切りをつけて疾く家へ帰りたいと云うことだけだ。頭が痛くなってくる。ため息が出る。
「おい、弟」
「はい?」
 首を傾げた石の弟に、石を差し出す。弟は俺の手から自分に手渡されようとしている白い石の欠片を、黒い目を輝かせて数秒みつめた後、両手で、恭しささえ滲ませた仕草で、受け取った。ありがとうございます、と囁くような、それでいて熱の籠もったような声で弟は礼を云った。
 少年はその華奢な白い指で以て、石の縁を、ゆるくラウンドしている石のその表面を、半ば恍惚めいた表情を浮かべながら、撫でる。そのまま石にキスでもしそうな雰囲気すらあった。
 兄さん、と呼んで愛おしげに石に触れる少年の眼差しは、真剣そのものだった。向けられている相手が人間であれば、全く問題などない。しかし、今、その行動と視線の向かう先は、石。
 ふと、不気味なものを感じる。なぜだか、とても理解が及ばない狂気の前にさらされたような……狂気?まさか。こんな中学生相手に、俺は何を考えているのだろう。理解が及ばないのは確かだが。
 そうだ、俺はもう帰りたいのだった。弟を捜す兄を、兄を捜す弟に引き合わせたのだ。もう帰っても良いはずだ。というか、シュールレアリズム展示会じゃあるまいし、こんな不条理なシチュエーションからさっさと離脱したい。
 じゃあ、俺はもう帰るから、と云って、少年と石に背を向けた……かったのだが、第一段階の「じゃあ」すら出なかった。予備動作の「視線を少年に合わせる」の時点で既に俺の計画は瓦解していた。離脱不可能。
 計画をぶちこわした要因は何か。
 視線を上げると、てっきりまだ石に注がれているかと思っていた少年の視線が、俺を見据えていた。夜を吸い込んだような黒い眼が、俺を見ていた。そして、静かに微笑んだ。背筋が粟立つ。それだけで足がコンクリートの地面に縫い止められた。蛇に睨まれた蛙とはこんな気分なのか?
「そういえば、まだ全然、説明してませんでしたね。折角兄さんを拾って運んでくれたのに」
 別に説明なんて聞きたくない、むしろ早く帰りたい。しかし、何か聞きたいことはありますか、と視線を合わせたまま問われると、特にない、とは云えなかった。俺は、色々な意味で訊かなくて良いことを、訊いてしまった。
「それ、何なの?」
「これですか?僕の兄さんの、欠片です。兄さん、この辺りでバラバラに飛び散ってしまったんですよ。大きな欠片は、すぐに集まったんですけど。細かいのはなかなか見つからなくて。ずっと探して、これ以外は全部見つかったんですけど……これだけ、僕には見えなくて」
「他のは見つかったのに?」
「ええ。ほら、あなたがこれを拾った場所……ここからほんの数歩ですけれど……あそこの向かいの家、角に小さなお社があるんです。要するに、あそこはギリギリ、神様の力の圏内だったんです」
「だから、見えなかった?……って、何でだよ」
「それはまあ……やっちゃいけないこと、やってるからじゃないですかね」
 とても楽しそうに、無邪気に少年は云った。割に、その眼の真剣さは失われていない。確信した。気のせいでは無かった。この真剣な眼の底には確かに、狂気がある。理路整然とした狂気。
 ……何か、ひどく恐ろしいことを聞かされているような気になる。知るべきではないこと、聞くべきではないことを聞いている、ような。
「あなたがこれを圏外に出してくれたので、ようやく見つけられました。やっと蓋ができます」
 蓋?蓋って何だ。石に蓋があるのか?中が空洞の石なのかこの兄は。
「……蓋?」
「ええ、蓋です。一番てっぺんの欠片です。これが無いと、中身がこぼれてしまうでしょう?」
 疑問符を大量に生産している俺を見て、石の弟はくすりと笑った。
「あなたは本当に、これを石だと思って扱ってくれたんですね……だから持ち出せたのか」
 本当に理解不能だ。目の前の中学生が何を云っているのかさっぱり解らない。
「ええ、何にせよ、本当にありがとうございました。その内、お礼に伺います……兄と一緒に」
 深く礼をして、少年は棒立ちになった俺の横を通り抜けた。はっと気付いて振り返ると、薄暗い街灯の点在する道路の上には、もう誰も居なかった。横道に、入ったのだろう。
「……帰ろう」
 固まったままだった足を動かす。ぎし、と軋んだが、筋肉は正常に動く。静かな線路脇の道路を、家へ。
 近くの踏切が閉まる。間近に聴く警報は、カァンカァンと耳を突き刺す。というか、脳に響く。暫くして、多分終電だろう、客の殆ど乗っていない電車が結構なスピードで通り抜けていった。生ぬるい風が遅れて頬を撫でる。
 ふと、あの白い石を思い出した。
 ……踏切、の近く、の白くて軽い石……
 いや、弟曰く。
「石じゃ、ない……?」
 石の弟と最後に交わした会話が蘇る。
 次いで、鮮烈なイメージ。
 バラバラになったものを統合してはいけない理由とは。
 ……繋ぎ合わせようとしたものは。
 首筋から背中にかけて悪寒が走った。
「絶対、礼になんて来るんじゃねえぞオイ……」
 とりあえず帰ったらとにかく手を洗って塩を。
 暫く、肉は食えない。

 * * * 

「この前は、ありがとうございました。おかげで、兄もこの通り」
「ほんとに助かったよ。ありがとう」
「……俺、塩まいたんだけど……?」
「何云ってんの、俺悪霊じゃないよ?霊ですらないよ。とりあえず、これ、菓子折」
「あ、高級店のじゃねーかこれ。良いのか?こんな良いやつ」
「これじゃ足りないだろうけどね」
「いや充分だけど」
「そう?」
「まあ、大したことしてねーし……(しまった俺普通に会話してる)」
「あ、でもこれ、引っ越し挨拶も兼ねてるから」
「へえ……は?引っ越し?」
「あ、前住んでた家、もう住めなくなっちゃったんです。だから、そこのアパートに越してきたんですよ」
「あ、ああ、そう……」
「そう云うわけ。で、これからよろしく、ご近所さん」
「……夢であってほしい……」
「君も往生際が悪いなぁ」
「死人もどきに云われたくない」

 :終: