: ひとりの塔 :

 彼は塔を降りることにした。
 雲海を下に眺める塔の天辺に、彼は居る。もう随分と長い間、ひとりで。
 塔は古びてはいたが朽ちてはいなかった。もっとも、もとがせいの高いだけの簡素な塔なのだから、元々朽ちているようなものではあったのだが。
 塔の外周に沿って設けられた螺旋状の階段を少し降りれば、居住空間の下の空間に果樹が茂っていたし、塔の一番上には雨水を貯める池があったから、飲食には困らない。
 それでも彼はひとりだった。塔には他にだれも居なかった。
 聞こえる音は自分の呼吸と心音、何もはめ込まれていない窓から吹き込む風の音、時にそこから入り込んで床を濡らす雨の音、雷鳴、窓の下を集団で飛び去っていく鳥の声、羽ばたきの音、それくらいのものだ。慰みに古いリュートを爪弾いてみても、虚しいだけだった。
 塔の天辺は常に肌寒かった。空も水もすべてが美しく澄んでいたが、どれも冷たかった。暖炉に火を入れても、一定温以上は上がらない。表面は暖かくなったが、芯は静かに冷えていた。それでも著しく体調を崩すことはなかったのだが。
 塔の上では生命を維持するのに不便はなかった。
 それでも、彼は塔を降りることにした。もう、寒いところにひとりでいることに、耐えられないと思った。
 今の状況をつらいと思うのは、それが満たされていた時期を覚えているからだ。しかし、彼はそれがいつのことだったのか、もうとうに忘れてしまっていた。それを感じさせてくれていたのは、母親だったろうか、父親、それとも親しい友人、恋人だったろうか。居たのならば、何処へ行ってしまったのか、なぜ自分はここにひとりで居るのか、死に別れてしまったのか。それもわからない。彼の住む塔の天辺には、彼以外の人の痕跡はなかった。ただ、心地良い感覚の記憶だけがあった。
 下へ行けば、それもわかるかもしれない。

 木製の頑丈な扉を開くと、螺旋状の階段が上と下とに続いている。少し上に行けば、きれいな雨水を貯めた池がある。彼はまずそこへ行って、使い古した革製の水筒に、充分に水を入れた。階段を下り、保存食も持っていたが、途中でいくつか果実を採っておく。それらを含めても、彼の持つ荷物はとても軽かった。わざわざ待っていくようなものも、塔の上には無かった。
 これまでにも何度か、彼は下に降りようとしたことがあった。そういう記憶があった。しかし、過去のどの試みも、成功しなかった。
 ある時には、下は水に沈んでいて、その水に阻まれてそれ以上進めなかった。ある時は、何日も何日も塔の外周を降りても下へつかず、食料も水も尽きかけた上に、まだまだ下には到底着かない高さにいたために、慌てて帰った。大抵は、いくら降りても一向に下へ着かない。階段を駆け降りても、息が切れ、呼吸が苦しくなるだけだった。ありったけの声を張り上げてみても、普段出さない声は掠れるばかりで響かなかった。叫んだ言葉も、果たして通じるのかどうか不安になった。こぼす涙が下へ届いて、誰か気付いてくれないかと思ったが、彼はもう誰かに何かを伝えるための涙の流し方を忘れてしまっていた。そうした全てが、彼の心を重くして、体を重くして、足が動かなくなるのが常だった。
 それでも、そうだと解っていても、彼は何度となく塔を降りる決断を繰り返している。今回も、また。

 急な外階段を、一段一段降りていく。塔の外周を廻り、下降していく。ぐるぐると回りながら下っていく。目が回りかけると、少し休む。何度か昼夜をやりすごすと、足下の階段と肌に感じる空気に変化があった。温度が上がっている。それとともに、湿度も上がっているのだろう、階段に苔が生えている。そこからは、滑らないように注意しながら進む。
 半日ほど進むと、突然、地面についた。石段とは違う、湿った土の感覚。
 ついに、彼は下へたどり着く。階段の途中でもわかったのだが、下は深い霧に覆われていた。
 こうして下へ着いたのは、初めてではないだろうか。彼の脳の深部に、かつてここに居た記憶があるはずなのだが、霧に覆われた下界の大地を踏みしめる感触は、初めてのような気もした。
 空気が生ぬるい、と彼は感じた。塔の上の空気より、なま暖かく、不純物が多いような気がした。呼吸をする度にのどにわだかまりを残すような空気だった。
 下へ降りれば誰かが居ると思っていた。何かがあると思っていた。確かに彼の、下に関する僅かな記憶の中に、それらはあった。しかし、今、彼が足を降ろした下界は、彼の記憶と期待とを裏切っていた。下には、塔の上とは違い、何でもあったし、誰もが居たが、かたちが、違った。
 様々なにおいと混じりあって流れる霧の中を歩くと、人のようなものといくつもすれ違う。それは、彼には人には見えなかった。人たち、とは表現できたかもしれないが。何人もの人間がべったりとくっついていた。何人もがひとつの塊になって、道を進み、ものを買い、家に入り、生きている。
 彼は驚いて立ちすくむ。人たちの姿は不気味だった。昔、本で読んだ化け物のようにも見えた。
 ずるりずるりと何本もの手足を使って動く人たちからは、たまにこぼれ落ちるものがいる。しかし、それもつかの間で、別の人たちに吸収されていく。そうしてまたくっついて、動き始める。完全に個体で立っている人間は、そこには居なかった。
 じっとりと暑いような空気の中に居るのに、彼は背中にうそ寒さを感じる。

 不意に、背中に何かが当たった。驚いて振り返ると、そこにひとつの人たちが居た。その中のひとりが、彼に触れたのだった。何かしきりに喋っている。そのひとりにくっついている他の者も、そのひとりの考えが何もかもわかっているように同時に喋っている。しかし、彼にはその言葉の意味がよくわからなかった。自分が言葉として使っている言語と同じはずなのだが、わからない。人たちの間では通じているらしく、しきりに頷いている通りすがりの人たちも居る。その顔は笑っている。
 彼を呼び止めた人たちが、今度は彼の腕に手を伸ばし、つかむ。とっさに、彼は腕を振り払って、後ずさった。触れて来た手はじとりと湿っていて、粘つくような皮膚感覚を彼の腕に残した。手を振り払われた人たちは、不可解なものを見る目で彼を見た。そしてまたひとしきり、人たちはその中の頭同士で話し、それが終わると再度、彼に手を伸ばしてきた。その手が触れる前に、彼は人たちに背を向け、走る。走って、逃げる。
 息が切れると、彼は速度を落とし、やがて足を止めた。自分が何処にいるのか良くわからなくなっていたが、振り返って、さっきの人たちが居ないことを確認すると、安堵の息をついた。
 彼が居るのは、霧のせいで薄暗い街の、更に暗い路地の途中だった。周りに、人たちは居ない。人たちは、彼にとって恐怖だった。触れられた瞬間、怖いと感じた。何よりもその姿が不気味だった。
 ため息をつく。細い路地は、両側に建物が建っている。彼は片方の壁に背を預ける。ふと、視界の隅に、何か動くものを感じる。そちらへ目をやると、そこには苦しそうに呼吸をする男が突っ伏していた。彼はその男に駆け寄り、助け起こそうと手を差し伸べる。男は彼の手をつかんで、立ち上がった。男が礼を云う。だが、そのまま、動かない。
 不思議に思って、彼が手を見ると、彼の手をつかんだ男の手が、融解したように形を崩していた。それが、彼の手を包んでいる。そのどろどろとした感覚となま温かさに、ぞわりと背中が粟立つ。この男は、自分とくっついて人たちになろうとしている。そう悟った瞬間、彼は目の前の男を突き飛ばしていた。男はあっけなく倒れ、そのまま、崩れてしまった。彼の手に残った男の一部分が、嫌な音を立てて、路地に落ちる。
 ひどい吐き気がこみ上げて来て、彼は壁際に座り込む。何も入っては居なかったが、胃の中のものを全て吐き出してしまいたかった。涙で視界がにじむ。
 深呼吸して、彼は目を閉じる。
 ここはこんな所だったろうか。変わってしまったのか、こんな姿に?もしかして、自分はここがこんな風になってしまったから、塔の上で生きることにしたのだろうか。そうも考えたが、彼の記憶の中に人たちの姿は無かった。
 だが、何にせよ、自分はここでは生きられないだろうと彼は感じた。人たちに融合してしまえばきっとひとりではない。寒いこともないだろう。しかし、あのなま温かさやじとりと湿った感触、粘つくような皮膚感覚は、彼には不快でしかなかった。まして、それとひとつになってしまうのは、恐怖以外の何ものでも無いような気がした。彼にとってあのなま暖かさが異質で合わないものならば、きっと人たちにとっての彼の冷えきってしまった体もまた、異質で合わないだろう。あの温度と湿度に馴染むには、彼の温度と湿度では摩擦係数が高すぎる。
 帰ろう、と彼は思う。帰ろう。今回もきっと、たどり着けなかっただけだ。

 彼は疲れた身体を引きずるように、塔へと戻った。塔の石造りの表面はひんやりとしていて、それが心地良い。この冷たさが心地良いと思ったのは、初めてだった。同時に、自分が馴染めるのは結局、ここしかないのだと納得し、しかし塔の上での生活を思って、悲しくもなった。
 納得したところで、ひとりでいる寒さに耐えられる訳でも、それが消えるわけでも無かったが、彼は塔を登る。
 塔の上部になるにつれ、霧は晴れ、重い湿気も薄れ、次第に澄んだ空気になっていく。その空気を取り込む度に、身体が軽くなるような気がして、彼は階段を上る速度を上げる。不思議と、下りとは違い、登りきるのにはそれほど日がかからなかった。
 住み慣れた住居に入り扉を閉めると、着替える手間も惜しんで、久しぶりのベッドに身を投げる。大して柔らかくもないマットだったが、それでも帰ってきたのだと安心した。下にいる時間よりも、塔を昇降する時間の方が遙かに長かったのだが、疲労の割合は下にいた時間の方が高いだろう。何日も無駄にしてしまった、と彼は思う。しかし、行かなければ何の収穫もなかった。今回の体験が収穫になるとは彼には思えなかったが。
 相変わらず憂鬱は晴れず、塔の冷たさも変わらないが、悪化していないのだからそれでいいと思った。いつもの様子に戻っただけだと、彼は自分を説得する。そんなに大げさに落ち込むことではない。

 顔でも洗おうと、彼は部屋を出て、外階段を上がる。屋上のため池はいつ見ても、冷たくきれいな水をたたえている。水辺には一本の細い木があり、そこに大きな鳥が巣を作っていた。多分、彼が下へ行っている間に作って住み着いたのだろう。鳥は真っ白な翼を畳んで、長い尾を垂らして、木の上でくつろいでいる。
 彼が顔を洗い終わっても、鳥はまだそこに居た。深い青の瞳で彼を見ている。思わず、彼は鳥に手を伸ばす。逃げるだろうと思ったが、鳥は彼を拒まなかった。たっぷりとした羽毛に指をうずめると、さらりと乾いた柔らかい感触が彼の指を包む。一瞬、下でのことを思い出して、彼は指を引きかけたが、鳥か自分がどろどろと融解し同化する気配はなかった。鳥の羽の表面は、気温のせいかひんやりとしていたが、その下は温かかった。体の底で強く熱を発している温かさで、彼はその心地よさに眼を閉じた。
 ふと、彼は鳥の体温がはじめより少し上がったことに気づく。それを意識すると、鳥が静かに一声鳴いた。そろそろ手を離してくれと云うことか。彼は名残惜しいながらも、素直に鳥から手を離す。
 今度は短く鳴いて、鳥は木から飛び去っていった。
 塔の一番上から見渡す、雲海の世界には、至る所に彼の居る塔と同じ塔の頭が見える。ごく近くにも、遙か遠くにも。近くの塔の住人に呼びかけたことがあるが、彼の声は届かなかった。多分、向こうも同じなのだろう。呼びかけたときには気づかれないし、呼びかけられたときには気づかない。そうして、ひとり塔で暮らしているのだ、きっと。
 それにしても、こんなに一度にほかの塔を目にするのは彼も初めてだった。塔の乱立する雲海の上を、白い大きな鳥が悠々と飛んでいくのを、彼は見送った。
 指先にはまだ鳥の温もりが残っていた。

 いつかまた、自分はひとりで居ることに耐えられなくなって、下へ行こうとするだろう。彼はそう予測する。それでも結局、失望してここに戻ってくるのだろうな、とも。
 本当は、下界など、無いのかも知れない。そう考えると悲しくなったが、今はどうでもいいと彼は思った。いつか孤独に耐えられなくなり、記憶している下へ行けないと落胆する日がまた来るだろうが、今ではなかった。
 塔の上は寒い。澄んではいるが冷たい空気を吸って、吐いて、部屋へと階段を降りる。
 その途中、遠くの塔の上にあの鳥が着地するのを、彼は見た。
 今日はよく眠れそうだと微笑み、扉を閉めた。

(みんなみんな塔の上)

 :終: