: さそりのやど :

 シンプルな木のテーブルには、清潔な白いクロスがかけてあって、その上に磨き込まれた銀の食器が行儀よく並べられている。僕のぶんと、ここには居ない、誰かのぶん。
 天の川のほとりで、僕はあまり座り心地がいいとは云えない、テーブルと揃いのデザインになっている椅子に座っている。目の前の食器には、何も盛られていない。特に空腹でもないので、別に構わない。
 テーブルの中央に、広い皿にたくさんの果物が盛られている。どことなく、冷めた色をしている。林檎の赤にも、葡萄の薄紫色や薄緑色にも、どこかごく薄い灰色の膜が張り付いているような感じだ。硬質の色、よくできてはいるけれど、触れたらきっと石でできているのだろうと思わせる色。手をつけていないから、本当はどうなのか解らない。
 いや、触れたことが、あっただろうか。この皿から、果物をひとつ取って……自分では食べなかったと思う。誰かに、渡したのだろうか。誰に、渡したのだろう。
「そろそろですね」
 果物に手を伸ばそうとした時、足元で声がした。さそりだ。僕の、友達。紅く強く輝く、火の色をしたさそり。
「そろそろ、って?」
「ほら、あの方ですよ」
 さそりが、尻尾で遠くの方を指す。僕とさそりの足元には、どこまでも続く星空の草原が広がっていて、その先に、強くひかる光が、見えた。ゆっくりと、近づいてくる。きらきらと輝く光をつれたひと。そうだ、あのひとは。
「思い出しました?」
「なんで忘れてたんだろうね」
「あなたは毎年そうですよ。天の川で釣りばかりしているから、ぼんやりしてしまうのですよ」
「違いない」
 光をつれたあのひとが、僕の向かいの椅子に座った。
 途端に、周囲の色が鮮やかになる。皿の上の果物も、急に生き生きとした色になる。座り心地のいいとは云えない椅子も、木独特のぬくもりを持ち始める。銀の皿には、いつの間にか、薄い花弁のスープが注がれていた。
「今年も来たよ」
 色をつれてやってきたひとが、よく通る声で云った。
「今年も、ようこそ」
「釣果はどうだい?」
「なかなか、釣れませんよ」
「まあ、気長に待つことだよ。さそりと話でもしながらね」
「ええ。そちらは、どうです?」
「私かい?まあ、見ての通りだよ、変わらない。何もね」
「変わりなく、疲れてるんですね」
「ずっと移動してるからね。でも、ほら、こうやって、きみ達の所で休ませてもらってるから」
 そう云って、そのひとは背負ってきた荷物を手でぽんぽんと叩いた。
「ええ、ここはあなた達の宿ですから、ゆっくり休んで行って下さい」
「ありがたいよ、本当に」
「特に、あなたが来ると、綺麗な色が見られるし、暖かくなりますから」
「私の役目はまさにそれだから。でも、気に入ってくれて、嬉しいよ」
 そのひとはにっこりと微笑んで、スープを飲む。僕も、スプーンを手にとって、ひとくち飲んだ。天の川の水をこして、それを、透けるように薄い桃色の花弁をたっぷりと入れたスープボウルに注ぎ込んで作ったスープは、不思議と温かい。きっとこのひとが来ているからだろう。
「ここは水が豊富でいいね」
「天の川のすぐほとりですから」
「明日は、私も釣りをしてみようかな」
「案外、大物がかかるかもしれませんね」
「双子の魚でも、かかるかな?」
「さすがに、それはどうでしょう……あの子達だって、宿の主人ですから」
「はは、そうだね」
 そうして、暫くの間、このひとはこの辺りに留まる。途中で、他のお客さんも来て、情報交換をして、それぞれ旅立っていく。さそりは大忙しだ。彼はこの辺りを取り仕切る要だ。
 そうこうしていると、時期が来て、このひとも次の場所へ旅立つ。次に会えるのは一年あとだ。
「それじゃあ、今年も、世話になったね」
「こちらこそ。また、どうぞ」
「さそり君も、元気で。私が居ない間、この辺りは君の灯が頼りだからね」
「あなたには及びませんが……ええ、頑張ります」
「うん、よろしくね。じゃあ、また、来年」
「はい、また来年、どうぞ」
「お待ちしております」
 手を振って、そのひとは、光を連れて旅立つ。ふと、そのひとが来る直前、果物に触れようとしたことを思い出した。そうだ、確かあれは、あのひとに。僕はテーブルまで駆けて戻って、まだ生きた色の乗った、真っ赤な林檎を手に取り、遠ざかろうとする背中に呼びかけた。
「ん、なんだい?」
「これ、ひとつどうぞ」
「ありがとう。おや、林檎だね。おいしそうだ」
「去年は、確か洋梨でしたね」
「うん。一年の楽しみなのに、今年はもらえないかと思って、残念に思っていたところだ」
「さっき、思い出しました」
「君は忘れっぽいからねぇ……うん、じゃあ、ありがたく貰っていこう」
「ええ、どうぞ」
 そのひとは大事そうに林檎を鞄の中に入れて、僕に軽く手を振ってから、今度こそ旅立った。
 その背が見えなくなるまで見送って、僕はまたテーブルに戻る。まだあのひとはそれほど離れていないから、色彩は辛うじて鮮やかだ。
 ひとつ手に取り、食べてみようとして、やめた。これは、来年たぶん、あのひとの手に渡るものだ。特に空腹ではないから、食べる必要もない。
 そうして、僕はまた、あのひとを待つ。

(まあ、また釣りに明け暮れて、忘れてしまうんでしょうけど)
(だって、君はお客の相手をさせてくれないじゃないか、あのひと以外)
(こんな忘れっぽい人に、仕事は任せられませんよ)
(ひどいなぁ)

 :終: