弐

 先生はまるで機械のように話す。抑揚が無い訳ではないけれど、そこに感情はあまり入ってこないように感じる。あったままをとつとつと淡彩絵の具の口調で語るから、柔らかい機械のようだと思った。囁くような先生の声と、ノートにペン先の走る音、時計の音だけが、薄暗い部屋の畳の上に積もる。
 今回の夢は、人形劇の話だった。ただし、やはり明るいものではない。真っ赤な幕が張られぼんやりと暗い照明に照らし出された舞台の上で、所々音の外れた三拍子の音楽に合わせて、沢山の人形ががちゃがちゃと演技をしている。しかし次第に、気付かない内に、舞台の上から人形が消えていく。ひとり、またひとり。気付けば、消えている。殺されたのか、死んだのか。そして、自分ひとりしか居なかった観客席に人が増えていく。ひとり、またひとり。気付けば増えている。いつの間に入ったのか、もとから居たのか。人形がひとつ減るたびに客席にはひとり増え、終には舞台の上にはひとつの人形も無くなり。いつしか客席は満席になる。ふと、後ろを振り返ると自分の席が無い。気が付くと、自分ひとりが、広い舞台の上、満員のがちゃがちゃと煩い客席の前、音の無い舞台に立ち尽くしている。そう云う夢。あまり気分の良い夢ではないな、と思った。
 一通り語り終えると、先生の意識はまたこちらへ戻ってきて、そしてようやく、活動を始める。けれど、そこからは動かない。まだ終りの合図が鳴っていないから、先生はそのまま人形のように動かない。僕がペンのふたを閉めるまで先生は人形のまま。僕はようやく締めくくりの文を書き終える。ペン先を布で拭って、ふたを閉める。ぱちん、と響いたその音が、部屋の空気を現実に引き戻した。
 先生が人間に戻る。もそもそと布団から抜け出して、文机の上のノートをじっと見ている。先生の真直ぐな視線が紙を射抜くようで、先生の言葉を書き写しただけなのに意味も無く気恥ずかしくなる。先生はどうやら、ノートを逆さから読んでいる。しっかり読めている、らしい。器用な人だ。
「先生、読みづらくないですか、そっち側」
「読めますよ。それにしても、穂積君、君の記憶力は素晴らしいです」
 まるで、もう一度夢を見ているようだ、と先生は云って、口の端で少し笑った。
「記憶力・・・そういう事にしか、役に立てませんから」
「いいえ、そんな事ありません。穂積君は総てにおいて、私の優秀な助手ですよ」
 細い指で頁を繰りながら、先生は事も無げにそう云うから、こう云う言葉に慣れていない僕は閉口する。辛うじて礼らしき物を呟けはしたけれど、先生の耳に空気の微細な振動が伝わったか否かは、謎だ。先生はまだノートを見つめている。僕はノートを見る先生を見ている。・・・それでは、ノートを見る先生を見る僕は、一体誰に見られているのだろうか。
「・・・ほづみくん・・・穂積君?」
「え?あ・・・は、はい!何でしょう」
 ふと思いついてしまった薄気味悪い想像を追いかけていて、ぼうっとしていたらしい。声に気付いて意識を戻すと、先生が僕の顔をごく至近距離で覗き込んでいて、僕は少なからず驚いた。“驚いて声も出ない”を久し振りに経験した。腕の筋肉と表情筋が、ぎし、と一瞬固まったのが分かった。けれどこの一連の僕の挙動不審を気にせず、僕の目に茶色がかった目を合わせたまま、先生は口を開いた。
「穂積君、お腹が空きました」
 拍子抜けして、固まった筋肉が緩んだ。そんな事だろうとは、思ったけれど。
「もしかして、もう食べてしまいましたか?」
「いえ、まだです。そうですね、丁度お昼ですから、用意します」
 そう云って、僕は立ち上がった、はずが、シャツの袖に抵抗を感じてそれは叶わなかった。
「・・・先生。そで、放してくれないと。食事の準備が出来ませんよ」
「はい」
 返事をしたにもかかわらず、まだ先生は手を放さない。この人が一体何をしたいのか。僕には時々分からなくなる。最初から分かっている事などないのかも知れないけれど。しかし、今回は少しだけ、心当たりがあった。
「先生、食事は後は温めるだけです。少ししたら、直ぐに戻ってきますから、放して下さい」
 今度は無言だったが、少し安堵した風に先生は手を放した。たまに、子供のようだと思う。
 直ぐに戻ると云ったからには、早速動かなくてはならない。滑りの良い襖を開けて、この部屋の前だけ雨戸を閉めたままの薄暗い廊下に出る。少し離れた窓から入る光が、ごく微かに足元まで泳いで来ていたが、それは歩いて空気を混ぜれば僅かの間に掻き消えてしまいそうだった。
 ひんやりとした湿気の流れる廊下を進んだ。外の蒸し暑い空気も何故かここまでは入って来ない。ひやりとした空気だけが流れていく。