参

 台所は遠い。台所は玄関側裏口付近にあるが、先生や僕の部屋は家の奥の方にある。空き部屋も多く、この家は人間2人で住むにはいささか広すぎる気がする。
 台所に入ると、勝手口の土間の湿った土のにおいが押し寄せてきた。勝手口は開いているから、戸口から少し外をみれば、平坦な青が目に沁みる。僕にはそれがとても眩しくて、直ぐに暗い土間へ戻った。その移動の間、ふと足元を見ると、白く立派な大根が2本、勝手口の影に置かれていた。影に置かれていたからか、表面は冷たい。葉は青々としていて、とても新鮮なようだ。小さな紙が大根の上に添えられていた。“お化け屋敷のお2人に。今朝とれたてです、萎びない内に水につけておいて下さいね。”
 ありがたい事に、たまにこの近所―とは言っても、この地域はそう近くはない距離で家が点在している―の人が、この家に畑の採れたて野菜やお惣菜を持ってきてくれる。あまり自活能力の無い僕、先生にとってはとても嬉しい。もちろん、僕も買出しに出たりはするのだけれど、そこで会うおばさん方に毎回、買い物法を教えられている。
 余計な思考をしながらも、僕は大根を水を張った桶に漬けて、昼食を温め始めていた。先生には申し訳無いけれど、今日は魚を切らせていて焼き魚は作れなかった。ご飯と、おみおつけ、ほうれん草のお浸し。まるで手抜きの朝食のようだけれど、いつもの事。2人分用意して、お盆に載せた。
 廊下を渡る時に、庭から鎖の音がした。この暑い中、ノエルは走り回っているのだろうか。元気な事だ。そう云えば此処しばらく、ノエルを散歩に連れて行っていない。そろそろ苦情が来そうだ。
 ノエルの散歩の事と夕飯の買出しの事を考えている内、もう先生の部屋の前に着いていた。僕が外に立ったのが分かったのか、先生が内側から襖を開いた。
「お疲れ様です穂積君」
「先生、そう思うならたまにはちゃんと居間で食べるようにしましょう」
「そうですねぇ・・・じゃあ、また今度と云う事で」
「またそれですか・・・」
 先生はやはり、焼き魚が無かった事に少しがっかりしているようだった。今日の夕飯の買出しに鯵を追加する。散歩の事を話すと先生は少し迷っていたが、夕方近くなら、と言うので、ノエルの散歩は夕方までお預けとなった。